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第50話 壁に耳あり、テーブルに

 人騒がせな心配事件から三日後。


 イグナシオは屋敷の団欒室(だんらんしつ)のテーブルの下に隠れていた。

 だが決して、楽しくかくれんぼをしているわけではない。


 なぜそんなところに隠れているのかというと、一歳のナタリーはイグナシオを見つけると「うーうー」と言って抱っこをせがむようになったからだ。


 最初の頃は四苦八苦しながらもどうにかあやしていたイグナシオだったが、苦労はそれだけではなかった。

 イグナシオがナタリーを抱っこする度に、涙目で訴えてくるサイラスがはっきり言って鬱陶(うっとう)しいのだ。


 しばらく一人になりたいと思ったイグナシオは、隙を見てフロート兄妹から逃げ、団欒室のテーブルの下で束の間の休息を取っていたのである。


「はーあ。おかげで赤ん坊の扱いが上手くなってしまった」


 イグナシオが頭を抱えていると、楽しそうな女性たちの話し声とヒールの足音がゾロゾロと近付いてくる。

 すると、団欒室の扉が開いた。


 ――しまった。そろそろお茶の時間だ。

 お母様とサイラスの母様、それにメイドたちだな……


 今さらテーブルの下から出ていくわけにも行かず、イグナシオはテーブルの下でやり過ごす決意をする。



 夫への不満や愚痴、人づてに聞いたおかしな話やゴシップなど、テーブルの下のイグナシオにとって母たちの会話は暇つぶしにはなったが、如何(いかん)せんテーブルの下は窮屈だ。


 せめて俺の自慢話でもしてくれないかなと、テーブルの裏の木目を数え始めた頃……


「まったくイグナシオったら、ひとりで顔も洗えないのよ。いつもサイラスに迷惑をかけて」


 ――今度は俺の愚痴が始まっただと!


「うふふ……私たち家族を呼ぶよう提案してくださったのは、イグナシオ様とお聞きしましたわ。従者のことも親身になって考えられる素晴らしいお方ではありませんか、レイティス様」

「そうねぇ、少しは大人になってきたということなのかしら。時間はかかったけど、あの二人もようやく打ち解けたみたい」


 お母様は意外と自分のことを見てくれているのだと、イグナシオは自然と口角が上がっていくのを感じる。


 するとレイティスは突然しんみりした声で呟いた。


「だから帰ってしまうなんて本当に淋しいわ。きっとイグナシオも淋しがる」


 ……ん、帰る? サイラスの家族のことか?


「サイラスも淋しがっていましたわ。でも……あの子が家業を継ぐことは、夫と私の願いですので……」


 サイラス?

 今、サイラスって言ったな……

 つまり、サイラスは帰るのか。

 …………は、帰る?

 サイラスが?

 そんなの、俺は一言も聞いてないぞ!




「あら、どうしたのサイラス。イグナシオ様と一緒ではないの?」


 キーラが誰かに声をかけた。

 どうやら団欒室にサイラスがやって来たようだ。


「あ、母様……奥様もすみません。それがイグナシオ様がいなくなって探しているんだけど、見つからないんだ。ナタリーがこっちに行ってと言うから来てみたんだけど流石にいない」

「うーうーうー!」


 ナタリーは小さな手を上下に動かして、レイティスたちが茶を楽しんでいるテーブルを指差した。


 ――まさか。


 レイティスがテーブルクロスを持ち上げると、中にはうずくまったイグナシオがいた。


「イグナシオっ! あなた、いつからそこに!?」

「………」


 イグナシオは無言だった。

 無言のままテーブルの下から出てくると、悔しそうにサイラスを見つめた。

 イグナシオのいつもと違う態度に、サイラスはすぐに違和感を感じ取る。


「イグナシオ様?」

「聞いたぞサイラス。お前、帰るんだってな」

「え……あ! それは」


 サイラスの言葉を遮ってイグナシオは話を続けた。


「お前は俺の従者なのに、俺に帰る報告はなしか。悲しいもんだな……いいさ。お前なんて、お前なんてっ、勝手に帰ればいいんだっっ‼」


 そう言い放ったイグナシオは、団欒室から走って出て行ってしまった。


 サイラスと仲良くなれたと思っていたのに、そう思っていたのは俺だけだったのか。

 そりゃそうか、ちょっと前まで俺はあいつに当たり散らしていたんだ。

 俺の元を去りたいと思うのは当たり前か。


 でも……もっと仲良くしたかったなぁ。

 あぁ、そうか! 俺はサイラスと友達になりたかったのか。


 全速力で廊下を駆け抜けて自室へとたどり着いたイグナシオは扉をパタンと閉めると、自分の本心に腰を抜かしてその場に崩れた落ちた。




 話は少し戻って団欒室。

 イグナシオの大きな声に驚いたナタリーはわんわん泣き出し、キーラは呆然としたサイラスからナタリーを受け取ってあやしている。


 こめかみを押さえて反省したレイティスは、サイラスに頭を下げる。


「サイラス、ごめんなさい。あの子がテーブルの下にいるなんて知らなくて、あのことを話してしまったの。こんな形で教えるつもりはなかったのに。もう少し時間を置いてから、それとなく伝えるつもりだったのに……って、泣いているのサイラス!?」

「え?」


 サイラスの瞳からはぽろぽろと涙がこぼれている。

 しかしどうして自分が泣いているのか、サイラスも理解していない様子だ。


「あなた、ちょっとこちらに座りなさい」


 レイティスはサイラスを椅子に座らせ、ハンカチでサイラスの涙を拭き取るが、拭いても拭いても涙はぼろぼろと止めどなくあふれてくる。

 泣いているうちに冷静になったサイラスは、自分の涙の理由を理解し始めた。


 この涙は嬉しい感情と悲しい感情、そして怒りの感情が入り混じった涙だ。


 嬉しいのは、僕が帰ると知ってイグナシオ様が悲しんでくれたこと。

 悲しいのは、イグナシオ様に自分のことで悲しいと言わせてしまったこと。

 そして怒りは、イグナシオ様に例のことを言わないでいた自分に対してだ。


 その三つの感情が、波のように押し寄せては引くのを繰り返している。


 そっか……やっぱりクレイグ君の言うことが正しかったみたいだ。


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