第4話 兄妹ゲンカは猫も食わない
声の主がすぐに分かったマーガレットは玄関ホールの扉に目をやると、すぐに階段の柵から顔を出し「お父様、おかえりなさーい。早かったのね」と、手を振った。
マーガレットを確認した「お父様」と呼ばれた男性は、もの凄いスピードで階段を駆け上がると、息ひとつ乱すことなくマーガレットを抱き上げてまじまじと見つめた。
「お母様が使いをくれてね、マーガレットが池で溺れたと聞いて飛んで帰ってきたんだ。思った以上に元気そうでよかった」
「えぇ、もう何ともないわ。でもお母様が大事をとって今日は早めに休むようにって」
「そうか、お母様も心配したんだ。今日は言うことを聞いてゆっくり休むんだよ、マーガレット」
心配した様子で私を覗き込むこの人はもちろん私のお父様、セルゲイ・フランツィスカ侯爵だ。
フランツィスカ家は普通の貴族とは異なっていて、国を守る軍の指揮を担っている『軍事貴族』だ。
『軍事貴族』とは、ローゼンブルク国を守るふたつの機関のうちのひとつである。
この機関は王家直轄の王族を守る『騎士団』、国直轄の隣国から国を守る『軍事貴族』とふたつの機関があり、両機関はそれなりに政に意見することができる権利を持っている。
このふたつの機関とは別に、ローゼンブルク王国を建国したとされる女神ファビオラーデを信仰している『聖ファビオラーデ教会』があり、聖ファビオラーデ教会は王家さえ口出しすることのできない対等な立ち位置にあるとされている。
『騎士団』『軍事貴族』『教会』の三つ巴って、ゲームの設定集でも説明されてたなぁ。
と、フランツィスカ家の立ち位置が分かったところで、軍事貴族の中でも国の中枢に務めているお父様はとっても多忙。
ただでさえ多忙なのに最近急な仕事が入ったらしく、朝食も夕食も一緒に摂れない日々が続いている。私が寝たあと、夜遅くに帰って来ているってお母様もマルガレタ様に愚痴をこぼしていた。
「……お父様。お母様もお父様に会いたそうにしていたから、あとで会いに行ってあげてね」
「っ⁉ マーガレット……お母様を気遣うことができるなんて、いつの間にそんなお姉さんになったんだい」
そう言いながらセルゲイは頬をマーガレットにすり寄せてくる。
生えかけのお髭がチクチク痛いけど、ここは我慢我慢。
お姉さんだもの……ふふ、くすぐったい。
「おい、従者のクセにお前はトロトロしすぎなんだよっ。このノロマっ!」
突然、マーガレットの背後から怒号が飛んできた。声の主は、先ほどマーガレットに喧嘩を売ったが買ってもらえなかったイグナシオだ。
うわぁ、これがアヴェルの言っていた『罵倒』ってヤツなのね。
前世の記憶を取り戻すちょっと前までは私もあんな感じだったんだわ、恥ずかしい……。
セルゲイは抱き上げていたマーガレットを降ろすと、イグナシオに聞こえるように大きな声を出した。
「イグナシオ、そういう言動はやめなさい。見たところサイラスは何も悪くないだろう」
「そんなことありません、お父様。サイラスは僕の足の踵を踏んだんです。僕よりこんな奴の事を信用なさるのですか?」
はぁ? 信用ですって、どの口が言ってるんだか。
今までのマーガレットの記憶によると、イグナシオはあることないこと言っていつもサイラスに辛くあたっていたみたい。
う―――ん、サイラスは私の笑顔に照れてくれるような可愛い従者さんだし助けてあげたいけど、イグナシオにはあんまり関わりたくないのよね。どうしたものかな。
マーガレットが頭を悩ませていると、イグナシオとバチリと目が合った。
「マーガレット、何だその反抗的な目は! お前はお母様に早く休むように言われているんだろう。だったらとっとと部屋に行け‼」
ムカッ! 我が兄ながら口の減らない奴ね。
いつも喧嘩を買っていたマーガレットの気持ちがちょっと分かったかも。
ああ、そう。そういうつもりなら売られたこの喧嘩買ってあげようじゃないの!
何か思いついたマーガレットは、不敵な笑みを浮かべてイグナシオの元へとずかずかと歩いていく。
「お兄様、私この前、メイドさんたちが話しているのを聞きましたの」
「は?」
「とある貴族令息とその従者の事件。その令息もお兄様のように自分の従者に辛くあたっていたんですって。そしたらね、腹に据えかねた従者は令息の紅茶に少しずつ毒を入れて、ゆっくりゆーっくりと気付かれないように弱らせて、ついには殺してしまったのよ」
「……それが何だっていうんだ」
「ねぇ、どうしてそうなってしまったか分かる? それは令息が従者を見下して大事にしなかったから。従者というのは生活の手伝いをしてくれたり、困ったときにフォローしてくれたり私たちを助けてくれる大切な存在よ。強い信頼関係を結ぶべき相手だわ。それなのにお兄様はどうしてひどい扱いをしているのかしら?」
「はあ?気でも狂ったのかお前」
「あら、意味が分からなかった? じゃあもうはっきりと言うわね。従者をゾンザイに扱うことしかできない器の小さなお兄様は人の上に立てない。貴族に向いてないって言ってるの!」
「んな、なななななっ! マーガレットおおぉぉぉぉ!!!」
顔を真っ赤にしたイグナシオは、怒りに打ち震えながらマーガレットを殴ろうと右手を大きく振り上げた――が、その腕が振り下ろされることはなかった。
「イグナシオ様、おやめください」
イグナシオの腕は従者のサイラスに掴まれてピクリとも動かない。
「くっ、おま、サイラス……」
「よし、そこまでだイグナシオ、サイラス。二人には話があるから僕の書斎で待っているように。ジョージ、頼むよ」
不穏な空気を剝がすようにイグナシオとサイラスの手を引き離したセルゲイは、家宰のジョージに二人をまかせ、少々考えた素振りをしてからマーガレットに問いかけた。
「イグナシオにはああ言ったが、マーガレットは従者のことを大切にできるのかい?」
「もちろん。私のために尽くしてくれる従者にひどい事なんて絶対にしないわ」
「ふむ……」
「お父様?」
「……あぁいや、何でもないんだ。それよりもイグナシオに言い聞かせてくれてありがとう、マーガレット。僕から言ってもイグナシオはその時だけ良い顔をするだけで聞かないからね、助かったよ」
「お父様の言い方は優しすぎるもの。お母様みたいにガツンと叱ったらいいと思うわ」
「ははは、お母様みたいにか…それは難しいなぁ。僕はもうすっかり丸くなってしまったからなぁ」
「お父様?」
「ああ、いや。何でもないよ。さぁ、寝室まで送っていこう」
セルゲイはマーガレットを抱き上げると、マーガレットの寝室へ向かって歩き出す。
うふふ、抱っこされるなんて前世の子供の時以来だわ。心は大人だからかちょっぴり恥ずかしい。
突然前世を思い出して恋ラバの世界に転生してるって気付いててんやわんやだったけど、ようやく落ち着いてきたかも。
先行きは不安だけど、幽閉エンドを迎えないためにも我が儘マーガレットは今日でおしまいにして、とりあえず皆と仲良くなることから始めてみよう。
ふあ~ぁ。安心したら眠くなってきちゃった。
寝室へ向かう道中、父に抱っこされたマーガレットは六歳の子供らしく、いつの間にか眠ってしまった。
お読みいただきありがとうございます。
次の話は――
幽閉エンドを避けるためマーガレットは我が儘をやめたのですが、かえって母レイティスに疑われてしまいます。
そして、マーガレットの運命に深く関わるかもしれない人物との出会いも……。
彼との出会いがマーガレットの未来に何をもたらすのか?