第37話 お祖父様がやってきた
年末のフランツィスカの屋敷は家族も使用人たちも、誰もがいつもよりも世話しなく、ソワソワとしていた。
母・レイティスも、使用人を束ねる家宰のジョージと先ほどから玄関ホールで入念に何か確認をしている。
イグナシオとマーガレットは玄関ホールに隣接する応接室の窓から外を見て、誰かが到着するのを今か今かと待ちわびていた。
門を通った人物を確かめては人違いの繰り返し。
流石に待ちくたびれたのか、暖炉の上の時計を確認したイグナシオはソファにだらしなく座ってため息を吐く。
「は~ぁ、もう予定の時刻を三十分も過ぎているじゃないか。いつになったらお祖父様は来るんだ?」
「年末のこの時期は本通りは混みますので、遅れているのかもしれませんね。あ、お茶のおかわりはいかがですか。マーガレット様もどうぞ」
「ありがとうサイラス。お兄様、きっとサイラスの言う通りだわ。それにもうすぐ寒波が来るとかで買い込みをしている人が多いと聞きました。街は年末と雪に備えた人たちで混雑しているのかも。気長に待ちましょう」
とは言ったマーガレットだったが、実は祖父が来るのを非常に楽しみにしていて昨日はろくに寝られなかった。マーガレットはお茶を優雅に口に含んで、眠気覚ましのカフェインを補給する。
マーガレットには前世の記憶が戻る前の記憶もきちんと残っている。
記憶が戻る以前のマーガレットが大好きだったのが、もうすぐ屋敷に到着する祖父だ。
祖父はローゼンブルクの王都より北西に位置しているフランツィスカ領を統治している、ルードヴィヒ・フランツィスカ公爵だ。
ちなみに、マーガレットの父はセルゲイ・フランツィスカ侯爵だが、いずれ祖父から爵位を譲り受けてフランツィスカ公爵となる予定だ。
ゲーム開始時にはマーガレットはフランツィスカ公爵令嬢だったので、そう遠くない未来に譲り受けるのだろう。
ルードヴィヒは孫であるイグナシオとマーガレットを溺愛していて、会うとこれでもかと甘やかしてくれる。
記憶が戻った私でもお祖父様に会うの、すっごく楽しみなのよね。
やっぱり私はマーガレットなんだわ。
と、ニヤニヤと緩んでしまう口元をティーカップで隠しながら、マーガレットは新しいお菓子の準備をしているクレイグの手に目をとめた。
クレイグの両手の親指・人差し指・中指には、包帯が巻かれていた。
ここ一週間ほどで、日に日に両手の包帯の面積が増えていっているのだ。
本人に聞いたら剣の稽古で豆ができたと言っていたけど、どうも怪しい。
従者の詮索をする主人なんて、カッコ悪いからしないけど………でも気になるっ!
ルードヴィヒの到着を心待ちにしているマーガレットたちの傍らで、従者クレイグは心底不安で仕方なかった。
先日、クレイグはセルゲイから書斎へ呼び出された。
セルゲイの話によると、ルードヴィヒから届いた手紙で「マーガレットに男の従者は不要」と抗議を受けたというのである。
「もうすぐそのお義父様がやって来る。もちろん、君へのフォローはするつもりだし、抗議されたからと君をマーガレットの従者から外すことはない。だが、もしかしたらお義父様は直接君に何か言うかもしれない……そのことは覚悟していてくれ」
先に教えてくれた旦那様には感謝しているが、大旦那様とは一体どんな方なのか正直不安で仕方がない。奥様の実の父親なのだから、ものをはっきり言う直情的な方だろうか。
ようやく従者として慣れ、この仕事にやりがいを感じ始めたのに……それに何と言っても、この前みたいな賊からお嬢様を守ると誓ったんだ。
頑張って乗り切って見せる。
クレイグがそんなことを考えているとも知らずに、ヒマを持て余したマーガレットは楽しそうに手を叩いた。
「あ、そうだわ。こういう時こそ暗記カードの出番だわ。お兄様! ……あら」
兄に勉強の催促をしようとしたマーガレットだが、イグナシオの手にはすでに暗記カードが握られていた。
イグナシオは「お前に言われなくとも」と誇らしげな表情をしている。
勉強を好きになってくれたようで何より。
でもこのままだと、私が抜かれるのも時間の問題かも。
前世で二十歳まで生きた私としては、十一歳のイグナシオにまだまだ負けるわけにはいかない。さてと、私もこのスキマ時間にお勉強を……
と、クレイグに暗記カードを頼もうとした時だった。
外の門が開き、黒いピアノのようにピカピカと輝く馬車が入ってきた。
その馬車の後ろにはもう一台木目が美しい馬車が付いてきており、さらにその後ろには四台の荷馬車が連なっている。
今度こそ、きっとお祖父様だわ。
窓から覗くと、フランツィスカの屋敷の正面玄関のエントランスは馬車で埋まっており、今からパーティでも始まりそうだ。
感心していると、マーガレットとイグナシオは母・レイティスから玄関ホールへ来るように促される。
玄関ホールへ行くと、使用人たちがズラリと並んでいた。
使用人たちからも緊張したような張りつめた空気が感じられ、いつものフランツィスカ家とはまったく違う雰囲気が漂っている。
やっぱりフランツィスカ家の家長のお祖父様が来るとなるとすごいのね。
フットマンたちが玄関の両扉を開けると、応接室の窓から見えた黒い馬車が停まっており、馬車のドアから父・セルゲイが顔を出す。
セルゲイは護衛も兼ねて一日前にルードヴィヒを迎えに行っていた。マーガレットたちに気付いたセルゲイは「こちらにおいで」と手招きする。
マーガレットとイグナシオが馬車へと小走りで向かうと、ちょうど祖父・ルードヴィヒが長旅で疲れた腰をさすりながら、馬車から降りてくるところだった。
二人の孫に気付いたルードヴィヒは、
「おお、イグナシオオラシオっ、マーガレット! 二人とも元気だったかい?」
と両手を広げて愛する孫たちを抱き締める。
「おじいさまぁ~っ」
「お祖父様、お久しぶりです」
「マーガレット、ちょっと見ない間に大きくなったなぁ。我が儘も言わなくなったと聞いたぞ。お姉さんになったものだ。そしてイグナシオオラシオ、なかなか逞しくなっているじゃないか。セルゲイから勉学に励んでいると聞いたぞ」
お祖父様はイグナシオお兄様のことを『イグナシオオラシオ』と呼ぶ。
イグナシオオラシオ・フランツィスカ。
それがイグナシオお兄様のフルネームなのだ。
詳しいことは分からないけど、名付けでもめた末に長い名前になったらしい。
「そうだ、二人にはたくさんの土産を買ってきたんだ。先日南東のコーヨウ国に行ってだな」
「もう、お父様ったら! そんなところで立ち話してないでさっさと入ってきたらどう? こっちはずっと待っているのだから」
と玄関ホールの扉から少し声を荒げたのはレイティスだ。
実の娘だけあって、公爵のお祖父様にも堂々とした立ち振る舞いで抗議している。
「おぉ、レイティス。我が娘よ。相変わらずの毒舌だな……その毒舌を聞けなくて父は淋しかった」
「もう……すぐ干渉に浸るんだから。とりあえず、お父様もお元気そうで何よりだわ。あんな遠いコーヨウ国まで旅行に行くなんて長旅だったでしょうに」
「ああ、流石に疲れたよ。懐かしい我が家で旅の疲れを取らせておくれ」
「懐かしいって、去年も来たじゃない」
「去年も来たが、私が住んでいた頃とするとだいぶ変ったぞ」
「十年以上経ったのだから、変わるわよ」
と、二人は挨拶もそこそこに仲良く屋敷へと入っていった。
その様子を見送ったマーガレットは、後ろの木目調の馬車のドアが開いたことに気付いた。
そういえば、お祖父様の後ろの馬車に乗っていたのは誰なのだろう。
マーガレットがチラリと見ると、馬車の中からは身なりの良い男性と赤ん坊を抱えた優しそうな女性が降りてきた。
家族? 誰かしら。
あの男の人は誰かに似ているような……。
マーガレットの隣にいたイグナシオが、声を潜めて従者のサイラスを促した。
「おいサイラス。早く行ってこい」
「え、はい……でも」
「どうしたんだ? 何を惚けている?」
「いえ、その……二年ぶりなのでどんな顔して会えばいいのか分からなくて」
「はぁ!? いつも妹に会いたいって言っていたのに何を今さら。いいからホラ、行ってこい!」
イグナシオはサイラスの背中を思いっきり押した。
押された勢いで前に踏み出したサイラスは、そのまま家族のもとへと歩き出す。
そっか、サイラスの家族だったのね。
へぇ~、イグナシオ兄さまったらちゃんと従者のことを考えているじゃない。
生暖かい微笑みを浮かべたマーガレットに気付いたイグナシオは、気恥ずかしそうに「フンッ」と声を漏らした。
あとで知ったことだが、お祖父様が来るならサイラスの家族も一緒にどうかと提案したのはイグナシオだったそうだ。