第33話 幕間 <イグナシオ・フランツィスカの憂鬱>
イグナシオはあまり勉強ができなかった。
特に過去を学ぶ歴史は苦手で、授業で赤点を採ると従者にあたるのが日課だった。
しかし、ある日。
従者をいじめるんじゃない。
従者というのは自分の味方になってもらうべき相手だ。
と、妹から偉そうに叱られた。
それどころか、従者に毒を盛られて悲惨な最期を遂げた主人の話を聞かされ、優しい父にもこっぴどく叱られた。
決して恐れたわけではないが、俺は従者に優しくすることにした。
従者のサイラスは、話してみると意外と気が合うことがわかった。
サイラスはフランツィスカ領で建設業を営む経営者一家の孫で、お祖父様とサイラスの祖父が飲み仲間でその縁で従者になったらしい。
もう五年近くも一緒にいるのに、俺はサイラスのことをこれっぽっちも知らなかった。知らなかったといえば、サイラスには半年前に妹が生まれて早く会ってみたいそうだ。
しかし、俺は思う。
妹なんてそんなにいいものではない。
特に五つ下の俺の妹はおかしい。
つい最近まで、字もろくに読めなかったクセに字を覚えた途端、ほとんどの教科で満点を取った。意味が分からない。
その上、賜物まで使えるだと。
先生たちは神童だと騒ぎ立て、お母様からは男女逆だったらよかったのにとまで言われた。
やっぱり妹なんて、そんなにいいものではない。
お父様は直に追いつくよと慰めてくれたが、そもそも兄の俺が追いつく側なのが納得いかない。さらにあろうことか、妹は剣の稽古をしたいとグリンフィルド先生に申し出て、俺の大好きな授業まで奪おうとした。
だから、少しお灸を据えてやるつもりで一対一の勝負を申し出た。
プライドの高い妹ならちょっと負かせば、すぐに諦めるか、癇癪を起こすかして逃げていくと思ったのに。
それなのに―――
勝負の途中で気付いてしまったのだ。
妹が何度打ち負かされても引き下がらない理由はあの、誘拐事件にあることに……。
あの日のことは忘れない。
妹の部屋に行ったメイドが騒ぎ出し、家宰のジョージが従者の手紙を見つけ、事情を聴いたお母様が青ざめた表情で「早くセルゲイに連絡して!」と何度も何度もヒステリックに叫び散らかしていた。
明らかにいつもと違う屋敷の雰囲気。
まるで白黒の世界みたいに冷たく音もない――どうして色が無いんだ?
何が足りないかなんてすぐにわかった。
……俺を心配させる妹なんてそんなにいいものじゃないだろ。
次は六日前の話だ。
妹が稽古をしたいと我が儘を言い出した次の日。
この日は授業もなく、俺は優雅に茶を楽しんでいた。
十一歳にもなれば、茶の違いも分かる男にならねばいけない。
サイラスに頼んで利き茶をしてあそ……いや、学んでいた時。トントンと扉を二回ノックする音が聞こえた。
お茶時に失礼な! ここはトイレではないぞ。
ノックは三回が常識ではないか。
扉が開く―――失礼なヤツは妹だった。
昨日の稽古でアザだらけになった妹は、シップの香りを漂わせながら俺の部屋へズカズカと押し入ると「ちょっとお勉強の仕方を見たいのでノートを見せてください」とやはり失礼なことを言ってきた。
最初は断ったが、優しい俺はノートを見せる。
昨日の稽古で妹をアザだらけにしたことを、後ろめたく思ったわけでは断じてない。
パラパラとノートをめくった妹は「お兄様はお勉強の仕方が悪いだけでやればできる子です。ノートの取り方と覚え方をお教えしますから、お母様を見返してやりましょう」と意気込んでいる。
お母様が男女逆だったらと言ったことを妹も聞いていたらしい。『やればできる子』という上から目線の言葉は引っかかったが、まぁ……兄として妹にノッてやることにした。
ノートの使い方は理にかなっていて復習に役立ったし、苦手なローゼンブルク史は暗記カードというものを作って、ヒマがあればカードをめくって覚えるよう小うるさく言われた。
基本的には覚えることの反復練習、頭に叩き込むことの継続だった。
こんなので効果があるのか?
俺が疑い始めた頃、ローゼンブルク史の小テストを受けた。
―俺は目を見張った。
今まで何を問いているのかさえ分からなかった問題の答えが、詰まることなく頭に浮かび、スラスラと解けていく。
あ、これマガゼミ(マーガレットゼミの略)でやったとこだ! 楽しい!
これなら勉強も稽古も恋も将来も、何もかも上手くいきそうだ――!
そうして満点を採った俺は気付くと妹――マーガレットに満点の報告をしていた。
もしかしたら「そんな当たり前のことで」と馬鹿にされるかもしれない。でも、不思議と報告をしたいと思えたのだ。
百点の文字を見たマーガレットは自分のことのように喜び、俺の頭を撫でた。
俺は撫でられた。俺より五つ下の六歳の妹に、だ。
でも不思議と嫌な気はしなかった。
今日だって、またローゼンブルク史のテストをほぼ満点で終えて稽古に来たのだ。後でマーガレットに報告はするが、別に撫でられたいとかじゃない。
そんなことを知らないマーガレットは木剣を俺に渡し、勝負を挑んでくる。
どうやらトンファーという近接武器をグリンフィルド先生からもらったとかで、戦いたくてウズウズしているようだ。
近くには、ぼろぼろになったマーガレットの従者のクレイグが横たわっている――こいつも大変だな。
少しは強くなったのかもしれないが、たかが武器が変わったくらいで俺が負けるものか。
結果はもちろん、俺の圧勝だ。
疲れ果てて立ち上がれなくなったマーガレットは、悔しがって両手両足をバタつかせる。
兄がそう簡単に負けるわけにはいかんだろ。
だが、そのトンファーという武器がマーガレットに合っているのは戦っていても伝わってきた。
いつか負ける日が来るかもしれない。でももう少し、稽古では兄貴面させてほしいものだ。
俺は自然とマーガレットの横に座ると、倒れたマーガレットの頭を撫でる。一瞬驚いたマーガレットだが、すぐにニコニコと嬉しそうな笑顔を向けてくる。
こいつ、こんな風に笑うんだな。妹なのに、今まで知らなかった。
なぁ、サイラス。
妹なんてそんなにいいものじゃ……………でも妹のはずなのに、たまに姉のように思えるのはなぜなんだろうな。
お読みいただきありがとうございます。
次の話は――
マーガレットのもとに、とある人物から招待状が届きます。
マーガレットは招待を受けたのですが、歓迎どころか目の敵にされてしまい……。
クレイグとの関係もちょっぴり変化があらわれる? かもしれないお話です。
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