第238話 鐘の音が聞こえる
首が痛くなるほど空を仰いだマーガレットは、見知らぬ建造物に目を凝らす。
「ここは聖堂ですか?」
マーガレットの問いかけに、ゼファーは遠い昔を思い出すように目を細めた。
「そう、ヴァルク聖堂だよ」
「ヴァルク聖堂……こんな場所に聖堂があるなんて、知りませんでしたわ」
「ローゼル学園にある二つの聖堂のうちの古い聖堂なんだ。今は新しく建てた、全校生徒が入るレシュミーナ聖堂が主流だろうからね。こちらはもう、ほとんど使われない。それでも生徒に時を告げる鐘は、今もこの鐘の音なんだ」
「あっ、そういえば。あちらの聖堂には鐘がありません。なるほど」
聖堂の扉に手を掛け、ゼファーはゆっくりと扉を開ける。
キィと軋む音が、聖堂内に反響した。
石造りの聖堂内は少し冷たさを感じるが、それが返って神聖な雰囲気を醸し出している。
マーガレットの手を引くゼファーは、礼拝堂ではなく、裏手へとマーガレットを導いていく――少しだけ、悪戯っぽい笑みを浮かべながら。
「ここからは少し登るんだ」
見上げると、そこには石造りの螺旋階段が天に向かって伸びていた。吹き抜けの空間は果てしなく高く、摩耗した石段には苔の緑が微かに息づいている。
―カツン、カツン。
二人はゆっくりと、しかし着実に階段を登った。空気はひんやりと澄んでいて、階段を登る靴音だけが天にこだまする。
息ひとつ乱すことなく登るマーガレットだったが、ゼファーの息が少し上がってきたので、四階の途中で少しだけ休憩を挟んだ。
壁に寄りかかって息を整えながら、ゼファーは紫色の瞳を輝かせる。
「マーガレットと学園生活を送るのが、僕の十六の頃からの夢だったんだ。年が八つも違うから望みはないと思っていたが、今日は夢を叶えられて嬉しいよ」
その輝かんばかりの真摯な眼差しにたじろぎながら、マーガレットは静かに微笑みを浮かべる。
もし、ゼファー様と私の年齢が近かったのなら、今よりもう少し、ゼファー様を近くに感じたのだろうか? …………好きに、なったのだろうか。
「さあ、もう少しだ。行こうか」
ゼファーはマーガレットの手を取り、再び階段を踏みしめる。
螺旋階段を登り終えた先は、簡素な小部屋だった。
部屋の中は埃と静寂だけが漂い、がらんとしている。しかし部屋の中心には、古びた部屋に似つかわしくない真新しい木製の梯子がひっそりと佇んでいた。
迷うことなく、ゼファーはその梯子に重みを預け、木の軋みを響かせながらゆっくりと登っていく。マーガレットもまた、ゼファーの足跡に導かれるように梯子を握り、あとを追った。
梯子の最後の段を踏み、マーガレットがたどり着いたのは、聖堂の頂にある青空の下だった。冷えた外気が頬を撫で、不思議と心が安らぐ。
顔を上げると、巨大な鐘が最上部に静かに吊り下がっている。
ここは聖堂の頂上、ローゼル学園に時を報せる神聖な領域だ。
二人は鐘をくぐる。ゼファーはマーガレットの手をそっと引き、聖堂の頂に広がる外の景色へと誘う。
マーガレットは目を見張った。
そこには、ローゼンブルクの王都全体を一望できる美しい光景が広がっていた。
ローゼンブルク城も、貴族街も、城下の街並みも、すべてが一体となって溶け込んでいる。
これがローゼンブルク……私の住んでいる場所なのね。
「きれい……」
「美しい景色だろう。ここはね、生徒たちが秘かに逢瀬を重ねる場所だそうだ。学生の頃にミュシャから聞いて、いつか君とこの景色を見たいと思っていた」
景色を見ていたゼファーの視線は、いつの間にかマーガレットに注がれていた。
美しいローゼンブルクの景色に息を呑んでいたマーガレットも、その熱い視線に気付いてゼファーを見つめ返した。
風の囁きも鳥のさえずりも消え、静寂が二人をそっと包み込む。
マーガレットを捉えるゼファーの真剣な眼差しには、不屈の決意が刻まれていた。
「僕はこの景色を、この国の王として守りたい……マーガレット、君にはこのローゼンブルクの王妃として、僕とともに、この景色を守ってほしい」
紫の瞳は揺らぐことなく、マーガレットを真っ直ぐに見据えている。
ゼファー様は真剣だ。
ゼファー様の望む返事は、もちろん『はい』だろう。
ただ笑って、『はい』と返事をすればいいだけ。
でも……
婚約が決まった八歳の少女の頃から、王妃になるべく妃教育を受けてきた。王妃になれるだけの血の滲むような努力はしてきたと、私なりに自負している。
でも……ゼファー様と並び立って、王妃としてこの国を守るという覚悟が、私にはあるのだろうか?
八歳の頃に王命で決まった婚約は、羽のように軽かった。
でも、今回の返答は違う。返答次第では運命が確定してしまうような、途方もない重みが宿っている。
ゼファーもまた、その重さの意味を知っているのだろう。
温かな微笑みを浮かべ、マーガレットの返事をただひたすらに待ち続けていた。
何を戸惑っているの、マーガレット。
私の一番の目標は、幽閉エンドを迎えないこと。
そのためにはきっと、ゼファー様の想いに応えて『はい』と返事をするのが一番の、一番の……。
脳裏の片隅に、クレイグの顔がちらりと揺らめいては、掻き消える。
何度繰り返しただろう。
口はもう『は』の形になり、あとは喉に力を込めて音を発するだけ。
その瞬間、
ゴォォォ――――ンっ、ゴォォーン。
突如、頭上から鳴り浴びた轟音に、思わず二人は耳を塞いで屈みこむ。
それはマーガレットとゼファーの頭上の巨大な鐘が、盛大に鳴り響いた音だった。音の振動で、身体はバリバリと鳥肌が立ったように震えている。
すると、梯子の出口から階下の小部屋の様子が見えた。
慌てた護衛騎士と、鐘を鳴らしたらしい面食らった男子生徒が何やら揉めていた。鐘の音が五月蠅くて声は微塵も聞こえないが、表情から不思議と想像できる。
「今、上にはゼファー王太子殿下がいらっしゃるんだぞッ‼」
「うぇぇーっ、すみませんッ!」
この鐘の音は、午後の授業十分前の予鈴だろう。
生徒は予鈴の係だろうか。
騎士と予鈴係は、鐘の音を何とか止めようと大慌てであたふたしている。
「ふっ、ふふふ」
その階下の光景が喜劇のようにコミカルで、マーガレットは思わず声を上げて笑ってしまった。
少女らしい屈託のない、初めて見るマーガレットの笑顔に、ゼファーは目を奪われる。
マーガレットもそんな風に、無邪気に笑うんだ。
いつもの女神のように洗練された笑顔も好きだけど…………うん、マーガレットに王妃の矜持を求めるのは、まだ早かったかもしれない。
あともう少し、無邪気な君を見ていたい。
だから、返事はもう少しだけ、待つことにしよう――。




