第237話 勘違いの救済
空色の瞳を大きく見開いたアリスは覚悟を決め、気迫を宿した形相でクレイグを見据えた。
「やっぱり……あのウワサは本当なのでしょうか?」
「ウワサ、ですか?」
訝しげに聞き返すクレイグに、息つく暇もなくアリスは続ける。
「マーガレット様が、本当はアヴェル殿下とご婚約するはずだったという、ウワサです」
そのひと言に、クレイグは口をつぐんで思案に暮れる。
まさかすでにアリスさんの耳にまで入っているとは……やはり、人のウワサに戸は立てられない。
それに、お嬢様の傍にいるアリスさんは、真実を知っておくべきかもしれない。
クレイグは思い定めるように緩やかに頷き、アリスの真っ直ぐな瞳を静かに見据えた。
「そのウワサは、真実そのものとは言えなくとも、それに限りなく近いものです。アリスさんが偽りのウワサに翻弄されないよう、簡潔にお話します。
おっしゃるとおり、幼少のお嬢様はアヴェル殿下とご婚約する予定でした。しかし、お嬢様をお気に召したゼファー殿下が現国王に頼み、王命を以てお嬢様との婚約を成立させたのです」
目を瞑り、ひと呼吸おくと、クレイグはひそやかに言葉を織り始めた。
「王命に逆らえば、国への反逆扱いとなるため、フランツィスカ公爵家としても手の打ちようがなく、今の状況となっています」
「……そういうこと、だったんですか」
シャツの袖口を握り、布にシワを刻みながら、アリスはその事実に打ちのめされた。
さっき、ゼファー殿下と言葉を交わした時は、物語から飛び出したような優しい王子様のようで、マーガレット様を心から愛していらっしゃるのだと、そう思った。
庶民の私が高貴な御方にこんなこと思ってはいけないのだろうけど……ゼファー殿下って、将来国王になられるのが心配になるほど、とても自分勝手な方だわ。
王命で婚約なんて、マーガレット様のお気持ちは……。
「あの、クレイグさん。じゃあ、やっぱりマーガレット様はアヴェル殿下のことを?」
「……それは」
「そ、それは?」
「………………いえ」
クレイグは言葉を喉に詰まらせ、胸に押し寄せる感情に沈む。
お嬢様が好いている相手?
それは――予想と希望が混ざり合ってもなお、それは『僕であってほしい』と僕の心が訴えている。
でもそんな大それたこと、アリスさんに宣言できるはずもない。
かと言って、『アヴェル殿下』と答えることは、喉奥で何かが引っかかり、声を放つことはできなかった。
不可解な挙動のクレイグを、アリスは怪訝な眼差しで追っていた。
やがて何か悟ったかのように目を大きく見開き、驚愕の声を張り上げた。
「もしかして……クレイグさんッ‼」
バレてしまったかとクレイグは顔を強張らせた。そして弁解の言葉を口にしようと、くちびるを動かす――だが、アリスは静かに手を掲げ、『皆まで言うな』とばかりに一切の言葉を封じた。
「いいんです。わかります。従者であるクレイグさんが、マーガレット様のお気持ちを代弁するなんて、してはいけないことですよね。身の程を弁えない質問をしてしまって、すみませんでした」
「い、いえ」
安堵から胸を撫で下ろすクレイグをよそに、アリスは勘違いを積み木のように積み重ねていくのだった。
★☆★☆★
ざわざわ。がやがや。
生徒たちの好奇な視線を一身に受けながら、マーガレットとゼファーは腕を組み、寄り添って学園内を散策していた。
ただでさえゼファー様は身長が高くて目立つのに、赤毛の私を連れていると、さらに人の目に留まってしまうわ。
そのうえ、注目されやすい道を通るものだから、生徒の群衆が後ろに列をなしている。
まるで英雄の凱旋のように周囲はごった返している。
騒ぎに気付いたアヴェルやシャルロッテとも挨拶を交わしたが、ゼファーが「行きたい場所があるから」と早々に別れてしまった。
ゼファー様の行きたい場所。一体どこに行くつもりなのだろう?
学園の東端に踏み込んだ頃合いで、ゼファーは足を止めた。
「これくらいでいいかな」
「何がですか?」
「ん? ふふふ。君が僕の婚約者だということ、かな」
「え?」
その言葉の意図を読み取れなかったマーガレットは、ぽかんとくちびるを開けたまま、首を傾げている。
そんな呆気に取られた顔も可愛らしい。
ああ、僕のマーガレット…………うん、そろそろ独り占めにしたい。
パチンっとゼファーが指を打ち鳴らすと、総勢十名の護衛騎士がゼファーの周囲に一列に並んだ。
マーガレットの華奢な肩を愛おしげに抱き寄せながら、ゼファーはその柔和な仕草とは対照的に、騎士たちには威風堂々たる態度で宣言した。
「マーガレットと二人で行きたい場所がある。彼らを止めてくれ!」
ゼファーの言う『彼ら』とは、二人の背を追ってきた野次馬、もとい生徒たちを示していると、ゼファーの視線からマーガレットにも理解できた。
騎士たちは「ハッ」と勇敢な声を轟かせ、一斉に四方へと散開する。その姿は、敵陣に果敢に飛び込む勇猛な戦士の風格を漂わせていた。
ま、やっていることは、ただの『群衆整理』なのだけど。
重厚な甲冑を輝かせ、騎士たちは毅然とした態度で群がる生徒たちを静かに整理していく。マーガレットとゼファーは生徒たちを置き去りにし、目的の場所へと向かい出す。
マーガレットを優しくエスコートしながら、少しやりすぎてしまったとゼファーは後悔に沈んでいた。
新入生歓迎パーティの報告を受け、マーガレットには自分という婚約者がいることを、どうしても生徒たちに――特に、発情した狼のような男子生徒たちに知らしめずにはいられなかった。
マーガレットに好意を持つ生徒へのただの牽制のつもりだったのだが、恐いもの知らずで思春期真っ盛りの十六、七の学生に果たして効果があるのだろうか。
寧ろ、劣情を燃え上がらせてしまわぬだろうか。
……うん、少し大人げなかったかもしれない。
そちらの結論はまだ霧の中。しかし、もうひとつの夢は叶いそうだ。
二人は、ある建物の前で足を止める。
首が痛くなるほどに空を仰いだマーガレットは、見知らぬ建物に目を凝らす。
「ここは、聖堂ですか?」




