第218話 妖しい誘惑
壁際へと追い詰められ、マーガレットは不安げにゼファーを見上げた。ゼファーはくちびるを微かに歪め、苛立ちを帯びた声で静かに語り始める。
「先日のパーティでは、僕以外の男たちと大いに羽目を外したのだろう?」
「お、男だなんて、皆さん生徒ですよ! それに羽目ではなく、ダンスを踊っただけですっ」
ひいぃぃぃ―――ッ。
新入生歓迎パーティの話から、全然逸らせていなかった。
ゼファーは目を細め、マーガレットの細い指先からしなやかな腕の曲線を愛でるように見つめた。そしてマーガレットの手にゆっくりと頬を寄せ、吐息を吹きかけると、不意に声を荒立てる。
「君の綺麗な手に、男たちの汚れた手が触れたなんて許せない!」
「みっ、皆さん紳士的な方でした。ゼファー様がお怒りになるようなことは何も……」
「マティアス・グリンフィルドという騎士もかい?」
そうよね。絶対にそこ聞くわよね。
マティアスと踊ったダンスは注目の的だったもの。
ある程度のことは、護衛騎士から聞いて把握しているのだろう。
それにしても、とんでもない把握能力だわ。
贈られたネックレスとかに盗聴器とか仕込まれてないわよね……あ、それだと馬車でのクレイグとのことも筒抜けだし、違うか。
ちらりとクレイグに視線を滑らせる。
クレイグは無表情のまま、こちらを見つめていた。
しかし、くちびるの噛みしめ具合から、クレイグの激昂を感じ取ったマーガレットは小さく目配せをし、静観を報せた。
大丈夫よ、クレイグ。
乗り切ってみせるから。
「マティアス様は、アヴィの昔からのご友人です。咎められるような方では」
「へえ、マティアス様か。名前で呼び合う仲なんだ。君とも知り合いなのかな」
ゼファーの口元の端は吊り上がり、瞳はまるで挑発するように怪しく揺らめいている。その『何か』を見極めようとしている眼差しに、マーガレットは自分が試されているのだと直感した。
ゼファー様は、私とマティアスが知り合いだと知っていて、わざと尋問している。ここは取り繕わず、嘘偽りなく答えましょう。
「マティアス様は二年前の御前試合で、私が蜂に刺されかけた時に助けてくださった方ですわ」
「……そうだったね。彼とは少し違うダンスを踊ったと聞いたよ。皆の注目を集める情熱的なダンスだったと……ねえ、彼と踊ったダンスを僕とも踊ってほしいな。そうしたら、このことについてはもう言及しないと誓おう」
マーガレットの手首をぎゅっと掴んだまま、ゼファーは食い入るようにマーガレットを見つめた。その視線には、形容しがたい王族独特の圧が込められている。
お願いしているけど、私に拒否する権利なんてないのでしょう。
でもそれで、誰もダンスのお咎めを受けないのなら安いものだわ。
胸の奥で大きな溜め息を吐いたマーガレットは、柔らかな笑顔を貼り付ける。
「わかりました。では、まず手をお離しになってください。ゼファー様」
「ああ、そうだね」
ゼファーの手が緩み、壁際から解放されたマーガレットは手首を優しく擦った。マーガレットの手首には、力強く握っていたゼファーの指の跡がくっきりと赤く残っている。その感情の重さに息を詰まらせながらも、マーガレットは柔らかな笑顔を取り繕う。
「それでは、いつものホールドを組みましょう」
マーガレットは自分の右手をゼファーの手と合わせ、左手はゼファーの右肩に添え、ダンスの基本姿勢であるホールドを組み合った。そして、そっと身を寄せ、ゼファーとの距離を詰める。
マティアスとタンゴを踊った時とすると距離はあるのだが、ゼファーは満足そうに紫色の瞳を緩ませている。
ゼファー様と共に舞踏会に招待された場合、ワルツを踊る機会も多いのだが、私たちのダンスの相性は噛み合わない歯車のように、いつもちぐはぐなのである。
果たして、上手くいくかしら?
「では、私の真似をして踊ってください」
いつものワルツと違い、マーガレットの先導で舞い踊る。
「ワンツー、ワンツー、その調子です」
マーガレットが逃げるようにしなやかに弧を描いてステップを踏むと、ゼファーが迫るように追いかける。それはまるで男女の駆け引きのようで、不思議と情熱的なタンゴが完成していく。
すると、ゼファーは興奮を隠しきれない様子で、マーガレットに熱い視線を送り始めた。
ん? どうしたのかしらゼファー様。
何だか……ちょっと怖い。
思いがけず二人の足並みは揃い、ダンスは静かに終わりを告げた。
マーガレットが手を解こうと指先を離した刹那――逃すまじと、ゼファーは力強く右手を掴んだ。そのまま引き寄せるように、マーガレットの手の甲にくちづけを施し、そして、甘い棘を刺すような艶やかな声でそっと囁く。
「ねえ、マーガレット。今日は翡翠宮に泊まっていかないか?」
マーガレットの翡翠の瞳が一度だけ瞬いた。
今日、その言葉を耳にするのは二度目だ。
同じ誘い言葉をシャルロッテから受け取ったばかりのマーガレットは、クスリと顔を綻ばせる。
「もしかして、シャルロッテから頼まれたのですか? もうシャルロッテったら、ゼファー様にまで頼むなんて」
「ん? どういうこと」
「え、シャルロッテが明日から始まる特別授業が嫌で、私に泊まっていかないかと……あ、れ?」
そうだわ、おかしい。
シャルロッテの部屋を出て、一本道の廊下を通ったところでゼファー様に会った。その間には、私とクレイグがいるのだから、ゼファー様が私たちよりも先にシャルロッテに会うことはない。
じゃ、じゃあ、今のお泊まりのお誘いは……シャルロッテではなくて、ゼファー様からのお誘いってこと?
戦慄の答えを導き出したマーガレットは、恐る恐る顔を上げた。
その視線の先には、滾るような妖しい桃色の炎を瞳に宿したゼファーが満面の笑みを湛えていた。




