第204話 蝶々姫の華やかな来臨
馬車乗り場の片隅にて。
肩を並べたマーガレットとアヴェルは会話に花を咲かせながら、アリスの到着を心待ちにしていた。二人の会話の話題は、アヴェルの妹のルナリアへと流れついた。
「へえ。ルナリアったら、今から楽しみにしているのね」
「そうなんだよ。母上と一緒になって、四年後の結婚のことばかり考えているよ。まだ学園にも入学していないのに」
「ふふふ。イグナシオお兄様は幸せ者だわ」
すると突然、馬車乗り場の空気が張りつめる。
マーガレットとアヴェルの乗った王家の馬車が停車した時と同様に、馬車の整理係のボーイが忙しなく動き始めた。
ボーイが馬車乗り場へと丁寧に誘導したのは、とある侯爵家の馬車。
あの紋章、確かクラマー侯爵家の馬車だわ。
クラマー侯爵家は、フランツィスカ公爵家と同じ軍事貴族だ。
実はイグナシオお兄様から、クラマー家の子息・ジェンキンス・クラマーとは関わらないようにと、注意を受けたばかりなのよね。
詳しくは教えてくれなかったけど、何やら悪いウワサがあるらしい。
馬車の扉が開いた瞬間、マーガレットとアヴェルは驚いて言葉を飲み込んだ。
ジェンキンス・クラマーが手を差し伸べたのは、薄桃色の髪を編み込み、アイボリー色のドレスで美しく着飾った——シャルロッテだった。
シャルロッテの その自信に満ちあふれた表情は王女そのもので、周囲の生徒たちからも感嘆にも似た溜め息が反響している。
その反応を受けたシャルロッテはというと、注目されて当然という顔付きだ。
私もあんな風に堂々と振る舞うべきだったのかしら。
すると、アヴェルが呆れ果てたように小さく呟いた。
「今回は侯爵家か……」
「え?」
「最近のシャルロッテは、週末になると夜会に五つほど顔を出すらしい。それだけでも驚きなのだが、夜会ごとにパートナーが変わるらしくてね」
「そんなに頻繁に顔を出しているの? でも婚約もしていないのだし、誰をパートナーにしても自由じゃないのかしら」
「はは。マーみたいに考えられたらいいんだが、皆が皆、そうではないらしい」
アヴェルは短く溜め息を吐くと、呆れたように遠くのシャルロッテを見つめて静かに話し始めた。
「シャルロッテは貴族の間で、あっちに行っては蜜を吸い、こっちに行ってはヒラヒラと舞う『蝶々姫』と呼ばれているらしいんだ……シャルロッテ本人に伝えても『可愛い名前だし、いいじゃない』と言って気にする様子もない。
もう俺は、呆れてしまって話す気もしないよ」
「そうだったの」
なるほど。
アヴェルが話してくれないと、シャルロッテが悩んでいたのは思い違いではなかったのね。でもアヴェルの態度は、気まぐれでもお年頃でもなく、姉を心配したからこその深い理由があったんだわ。
それにしても『蝶々姫』かあ。
そんな可愛らしい名前なのに、王女を遊び人と揶揄する辛辣な皮肉がたっぷりと込められているなんて、貴族って本当に怖いわ。
私も『ゼファー殿下のお人形』なんて呼ばれていて、他人事じゃないし。
華やかな貴族の仮面の裏に潜む、狡猾な本性に嫌気を覚えたマーガレットは、重々しい溜め息を吐く。
すると、レッドカーペットを歩く舞台女優のように涼しげな表情をしたシャルロッテの視線が、こちらを捉えた。シャルロッテは魔法が解けたように普段の愛らしい表情へと戻り、エスコートされていない手をこちらに向けて大きく振り始める。
あ、いつものシャルロッテだわ。
シャルロッテはパートナーのジェンキンス・クラマーの逞しい腕を力強く掴み、まるで自分がエスコートするかのように歩みを進めた。リードされてしまったクラマーは、心底嫌そうに顔を歪めている。
シャルロッテ、クラマーがすごく嫌がっているわ。気付いて!
マーガレットのささやかな祈りも虚しく、二人はそのままマーガレットたちの眼前へと辿り着く。
「アヴィ、マーガレット。二人とも、もう来ていたのですね。マーガレットのドレス、とても似合っていて素敵。お兄様からなの?」
「ええ、そうよ。それよりもシャルロッテ……(ごにょごにょ)そちらの方の紹介を」
「あ! ああ、そうでした。こちらはジェンキンス・クラマー侯爵令息です。マーガレットはご存知ではなくて? フランツィスカ家と同じ軍事貴族だそうですから」
「ええ、そうね」
マーガレットはひと言だけ返事をすると、この四人の中で一番身分の高い第三王子のアヴェルの背中を、後ろから軽く小突いて合図を送った。
一般的に、貴族は身分の高い者から話しかけなければ、口を利くことはできない。
しかし、シャルロッテもアヴェルもあまり気にしていないらしく、学園では身分の差など意に返さずに、生徒たちと自然体で会話を交わしている。
ただ真面目な人だったり、上下関係に厳しい軍事貴族だったりすると融通が利かない者もいるので、私がアヴェルに合図を送ったのだった。
合図を受けたアヴェルは、姉の隣に立つクラマーに少々硬い笑顔を向ける。
「はじめまして、クラマー殿。姉のシャルロッテのパートナーを引き受けてくれて感謝します」
「アヴェル殿下、お初にお目にかかります。ジェンキンス・クラマーと申します。私こそ、まさかシャルロッテ王女殿下からお誘いを受けるとは思わず、天にも昇る気持ちでございます」
軍事貴族らしく、厳格な挨拶を述べたクラマーは、筋骨隆々な見た目に反して甲高い声を響かせた。クラマーはマーガレットに視線を移すと、穏やかに言葉を紡ぐ。
「フランツィスカ嬢、お久しぶりですね。あなたは軍関連のパーティにはあまり顔を出されないので、こうしてお会いできて光栄です……今日は一段とお美しい」
クラマーは日に焼けた顔を輝かせ、賛辞の言葉を述べると目を細くして笑みをこぼす。兄のイグナシオからの注意がどうにも引っかかったマーガレットは、にっこりと笑って返事をするに留めた。
何か、妙な胸騒ぎがするのよね。
マーガレットの疑心も影響したのか、挨拶を終えた四人はぎこちない会話を交わしていた。
そんな途切れがちな会話を切り替えるように、マーガレットはシャルロッテにそっと言葉を投げかける。
「シャルロッテがまるで大女優みたいな、ううん、女王様のように馬車を降りてきて、驚いちゃったわ」
「うふふ、ワタクシ、この馬車を降りる時がパーティで一番好きな瞬間なの。皆が注目していて、すごく気持ちいいのよ」
「シャルロッテったら、目立ちたがり屋なんだから」
二人の楽しげな笑い声に、アヴェルは静かに耳を傾けていた。シャルロッテは、そんなアヴェルの姿に目を留め、勇気を振り絞って声をかける。
「ねえ、アヴィ。今日はワタクシとも踊ってくれますか?」
「あ、いや」
「やっぱり、恥ずかしいのですか? 昔は楽しく踊ったでしょう。マーガレットとのダンスの練習でも……あ!」
するとシャルロッテは、自分の口元を抑えて黙り込んだ。
シャルロッテが口を滑らせたのは、八年前の、幻と消えたアヴェルとマーガレットの婚約発表会で披露するはずだったダンスのことだった。
結局、その成果を見せる前に、マーガレットの婚約者の座はゼファーに奪われてしまったのだが……。
シャルロッテは恐る恐るアヴェルを一瞥した。
アヴェルの表情は普段と何も変わらない。しかし、アヴェルの紫色の瞳の奥に僅かな苛立ちを感じ、シャルロッテは無理やりに笑顔を弾かせる。
「あ、ごごごめんなさい。ワタクシ、あちらに用があるので失礼しますね。さあ、行きましょうジェンキンス」
「あ、ちょっと」
「ほほほほほ」
シャルロッテはクラマーの逞しい腕を掴むと、またもリードするように軽々と引きずっていった。二人の後ろ姿を見送りながら、マーガレットは小首を捻っている。
「おかしなシャルロッテ、どうしちゃったのかしら」
「さあ、何かうしろめたいことでもあったんじゃないか」
「蝶々姫のこと?」
「いや、それについては……まったく気にしていないな」
成長するごとに奔放になっていく姉・シャルロッテの行動に呆れながらも、その大胆さに、アヴェルは秘かに羨望の眼差しを向けるのだった。




