第200話 ラウルとアンナマリア
「う、うっ……ぐす」
アンナマリアの泣きじゃくった声が、温室に響き渡った。
その震える声にラウルはハっと我に返り、クレイグに言われた言葉が心の中で繰り返し反芻される。
『アンナマリア様に“愛の言葉”のひとつも掛けられましたか?』
『お二人でよく話し合われてはいかがでしょうか?』
愛の言葉なんて簡単に言えたのならば、とっくの昔に告げている。
これまで幾度となくアンナマリアに好意を伝えようと努力してきたが、本人を前にすると、声は泡沫のように消えていった。
もし愛を告げられていたのなら、アンナマリアは不安に思うこともなく、こうして号泣することもなかったのだろうか。
ラウルは腕の中で震えるアンナマリアを力強く抱きしめた。
「……アンナマリア。失敗とかふさわしくないとか、そんなことはどうでもいい」
「いいえっ、私はラウル様の隣に立つ資格なんてないのです。私は、クッキーさえラウル様に渡せないダメダメなんですっ……ひっく」
アンナマリアは自分を重ねるように、透明なオーロラ色の袋の中で粉々になったクッキーを見つめている。
その視線の先に気付いたラウルは袋に手を伸ばすと、豪快に袋を破って、砕けて粉々になったクッキーを次々と口に放り込み頬張り始めた。
静寂に満ちた温室に響くラウルの咀嚼の音は、ラウルの覚悟を代弁しているかのようだった。
最後のクッキーを味わい終えると、ラウルはアンナマリアのミルクティ色の髪に指を滑らせ、優しく微笑んだ。
「アンナマリア、クッキーをありがとう。美味しかったぞ……俺がトマトを好きなこと、覚えていてくれたんだな…………少しだけでいいから、泣かないで俺の話を聞いてくれ」
アンナマリアは涙を堪え、くちびるを固く結んだままゆっくりと頷いた。アンナマリアの同意を確認すると、ラウルは穏やかな笑みを浮かべ、躊躇いながらも言葉を紡ぎ始める。
「アンナマリアは色々と気にしているみたいだが、そんなことはどうでもいい。 俺はお前がいいんだ。お前が居てくれさえすれば、俺はラウル・アヴァンシーニとして頑張れる。俺はただ……ただ、アンナマリアが好きだから、俺にはそれだけで十分なんだよ」
「…………え」
ラウルからの突然の愛の告白に、アンナマリアは澄んだ瞳を瞬かせてラウルをしっかりと見据える。ようやくアンナマリアが目を向けてくれたことに、ラウルは安堵した。
ラウルはアンナマリアをそっと抱き寄せると、耳元で心地よい低音を響かせる。
「不安ならもっと俺を頼ればいい。お前の頼みなら、喜んで地獄にだって行ってやる……お前は一人でアヴァンシーニを背負うわけではないんだ。公爵夫人として完璧な振る舞いをする必要なんてない。
必要なのは、アンナマリアが俺の傍にいてくれることだけだ……だからもう、泣かないでくれ。俺も悲しくなるだろ」
「ラウル、さま」
今の俺の顔は、とてもじゃないがアンナマリアには見せられない酷い顔をしているのだろう。
いつの間にか、アンナマリアの嗚咽は止まり、耳に届くのはアンナマリアの少しの吐息と自分の心臓が奏でるバクバクとした音だけ……。
何気なくアンナマリアに目をやると、アンナマリアの熱っぽい視線がラウルを貫いた。胸をざわめかせるラウルに、追い打ちをかけるようにアンナマリアは顔を寄せる。
「私も……私もラウル様が大好きですわ!」
「っ!?」
顔を綻ばせながら、上目遣いで恥ずかしそうに告白したアンナマリアを、ラウルは生涯忘れないだろう。
約六年余り婚約していた二人だが、ようやくお互いの気持ちを確かめ合えた瞬間だった。
アンナマリアの瞳は、これまでのすれ違いを埋めるように、ラウルをじっと捉えて離さない。アンナマリアの熱い視線に耐えきれず、頬をほのかに赤らめたラウルは照れ隠しに視線を逸らした。
「そう見つめるな。照れるだろう」
「ふふ、お慕いしておりますわ」
「俺もだ…………アンナマリア」
「……ラウルさま」
静寂の温室で、ラウルとアンナマリアは互いに引き寄せられるように顔を近づけていく。ただ二人の吐息だけが溶け合い、甘い沈黙が二人を包みこむ。
二人はそのままくちびるを——
—ん?
しかし、そこで我に返ったラウルは、周囲を見回した。
辺りには声を押し殺してボロボロと号泣するマーガレットと、嬉々としてこちらを見ているアリスとシャルロッテ。
そして知らぬ存ぜぬで目を泳がせているクレイグやターニャ、シャルロッテの護衛騎士たち、そしてアヴァンシーニ家のメイドたちがいた。
まだこの状況に気付かないアンナマリアは、「どうかなさいましたか?」と続きを待っている。ラウル自身も続きをしたかったが、アンナマリアとの初めてのくちづけを自分だけのものにしたいと欲のでたラウルは、アンナマリアの柔らかなくちびるに指先で触れる。
「アンナマリア。俺たちはかなり注目されているぞ」
「え……きゃ。本当ですわ! は、恥ずかしい」
「いいか。立ち上がって、何もなかったように普通に振る舞おう」
「はい……あの、ラウル様」
ラウルの胸元のシャツを細い指先で摘まんだアンナマリアは、恥ずかしそうに上目遣いでラウルを見上げた。アンナマリアの長い睫毛と薔薇色の頬に、ラウルは息を呑んだが、煩悩を払って冷静を装う。
「ん、何だ?」
「さっきの続きは、いつなさいますか?」
「んなっ!? それは…………こほんっ。意外と積極的なんだなアンナマリアは」
「ラウル様と心が通じ合ったので、私も少し強くなったのかもしれませんっ。これなら、公爵夫人教育も頑張れそうです!」
長い暗闇のトンネルをくぐり抜けたアンナマリアの声は、鈴の音のように澄んでいて耳に心地よい。ラウルはいつもの堂々とした笑みを浮かべると、そっとアンナマリアの頭を撫でる。
「ほう、それはよかった」
甘く呟くと同時に、優しく髪を撫でるその仕草は、アンナマリアへの愛おしさで満ちていた。ラウルはアンナマリアの手を引き寄せて、手の甲にくちづけをし、「続きはまた今度な」と囁いた。
しかしその囁きは、アンナマリアだけに聞こえたわけではなかったらしく……。
「えーっ、くちづけするのではないのですかー!?」
「よかったです。アンナマリア様」
「うっうっ……良いハッピーエンドでした。ありがどうございまじだーっ」
順にシャルロッテ、アリス、マーガレットの三人の女性陣の声が聞こえ、ラウルとアンナマリアは現実へと引き戻される。
アンナマリアは頬を薔薇色に染め、ラウルも喉を詰まらせて咳払いしている。
顔を見合わせた二人は顔を赤らめながら、そそくさと立ち上がるのだった。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます(*ᴗˬᴗ)⁾⁾
200話まで続けてこられたのは、読んでくださる皆さんのおかげです。
偶然なのですが、
100話と200話のタイトルは似ていて、何か不思議な縁を感じています。
そしてブクマや評価、リアクション、感想等を本当にありがとうございます。
皆さまの温かい反応が、日々の創作の支えになっています。




