第199話 ある不遜な従者による忠言
マーガレットとラウル、そしてクレイグが談笑している傍ら、アリスとアンナマリアとシャルロッテたちの三人は、乙女らしい語らいに花を咲かせていた。
「まあ! アンナマリア様がクッキーを作られたのですか? ラウル様のためにだなんて、とっても素敵な話ですね」
同世代の恋愛話に目を輝かせる王女シャルロッテに、アンナマリアは緊張からか、普段よりも身体を大きく動かしてその胸の内を伝えた。
「そ、そんな大それた話ではないのですっ。マーガレットとクレイグ先生に手伝ってもらいましたし。それに、ラウル様にいらないと言われてしまったら私……」
「アンナマリア様は本当にラウル様がお好きなのですね。ワタクシにはよくわからないですけど、恋ってどんなものなのかしら?」
「ど、どんなものと言われましても、私はただラウル様に見合う女性になりたいと思っているだけで……先ほども閣下にビシバシいくと叱られてしまいましたし」
それって婚約破棄はなくなったのではと、事情を知っているアリスは嬉しそうにアンナマリアに目配せしたが、アンナマリアは複雑な表情を浮かべている。
不思議そうに小首を傾げたアリスの横で、シャルロッテは心の奥に隠した諦めを吐き出すように、静かな溜め息を漏らした。
「はぁ。アンナマリア様は好きな方と婚約されて羨ましいです……お姉様たちを見たかぎり、ワタクシは外国にお嫁にいくのでしょう。妹のルナリアは早々にイグナシオ様と婚約したし、最後に残ったワタクシはきっと政治の駒にされる運命なのです」
「駒だなんて、そんな悲しいことを仰らないでください」
「そうですわ、シャルロッテ様」
アリスとアンナマリアの心配を絵に描いたような眼差しを目にしたシャルロッテは、くちびるに柔らかな笑みを浮かべ、静かに言葉を連ねた。
「二人ともありがとう。でもこれは、王家に生まれた者の宿命ですもの……王家や貴族の結婚は、国や家を繋ぐためのもの。愛した人と結婚できる方のほうが少ないのです。ワタクシや……マーガレットだってそう、自分の意志は関係なく、望まれれば相手に嫁ぐしかないのですわ」
それ以上、かける言葉は見つからず、アリスとアンナマリアは無言で目を伏せるしかなかった。そんな静寂を破るように、シャルロッテは軽やかな笑顔で場を照らす。
「さあ、アンナマリア様! あちらの話も一段落ついたようですし、ラウル様にクッキーをお渡ししてはいかが?」
「え!? 今からですか……」
アリスはアンナマリアの震える肩にそっと手を置くと、力強く勇気付ける。
「大丈夫です。クッキーだって、ラウル様に食べて欲しがっていますよ」
「アリスさん……そ、そうですわね」
クッキーの袋を握りしめたアンナマリアは、ラウルのもとへと歩き出す。
右手と右足、左手と左足が同時に動く仕草からも、アンナマリアの緊張の様子が窺える。
その様子に気付いたラウルとマーガレットも、アンナマリアに目を止めた。
一瞬ですべてを理解したマーガレットは、クレイグの手を軽く引き、足早にその場から離れた。
ラウルはマーガレットたちが離れたことにも気付かぬまま、アンナマリアの姿に心奪われていた。アンナマリアの張りつめた緊張を解こうと、ラウルはそっと笑いかける。
しかしその瞬間、アンナマリアは何もない場所で転び、前に倒れ込んでしまった。
「アンナマリアッ!?」
考える暇などなく、ラウルは転倒するアンナマリアを抱き留めた。
ラウルの腕がアンナマリアを抱き留めた衝撃で、アンナマリアの手からクッキーがこぼれ落ち――宙を舞う。地面へと落ちていくクッキーがまるでスローモーションのように、ひび割れ、そして無惨に砕け散っていく。
―ああ、やっぱり。
砕けたクッキーと一緒にアンナマリアの心もひび割れて……これまで我慢していたものが、汚泥のように流れ出し、気付いた時にはアンナマリアは声を上げて泣いていた。
「う、うぅ……ひっく、ひっく」
「怪我はないな。どうしたんだアンナマリア……どこか痛むのか?」
「ごめんなさい、ごめんなさい。ラウル様っ」
「ごめんなさいだけでは何もわからないだろ。ゆっくりでいいから話せ」
「わ、私みたいな失敗ばかりの田舎娘がアヴァンシーニ公爵家の夫人なんて、やっぱり相応しくないのですわ……ぐすっ」
止めどなく流れるアンナマリアの涙がラウルの右肩を濡らし、微かな湿り気がラウルのシャツに滲んでいく。その湿り気は、ラウルの秘めた想いを揺さぶった。
俺のせいだ。俺のせいで、アンナマリアをこんなに泣かせて……。
アイツの言うとおり、俺がアンナマリアをこんなに追い詰めてしまった!
それはカリーパーティが始まる前の、クレイグとの会話でのことである。
「お言葉ですが、ラウル様。僕は、あなたを見ていて気付いたことがあるのです……あなたほどの無遠慮な方が惚れた弱みなのか、アンナマリア様には、かなり遠慮していらっしゃいますよね?」
クレイグの探るような鋭い視線を一蹴するように、ラウルは軽やかな笑みを浮かべた。
「別にそんなこと、は」
「出迎えて頂いたエントランスでも、まるで花びらにでも触るかのように優しく寄り添っておいででしたよ」
「…………悪いか」
「悪くはないです。ただ、真面目なアンナマリア様は、自分を責めてしまうのではと思ったものですから」
「何だと!? そんな訳ないだろう。アンナマリアは何も悪くない。悪いのは、くだらぬ派閥に踊らされている父たちであって」
ラウルの言葉が途切れる間もなく、クレイグは死角から容赦のない質問を投げかける。
「ではお聞きしますが、お立場の悪くなったアンナマリア様に『愛の言葉』のひとつも掛けられましたか?」
「あ、愛の言葉!? いきなり何を言い出すんだ」
「きっとあなたが掛けた言葉は『気にすることはない』とか、『俺がどうにかするから』とか、その程度なのでしょう?」
「…………う。いや、しかし」
図星を突かれたラウルは、視線を地面に落とした。
クレイグは静かに、淡々とした口調で言葉を重ねていく。
「確かにあなたは父であるアヴァンシーニ閣下に歯向かってまでも、アンナマリア様との婚約を続けようとなさっています。しかし、アンナマリア様はこの婚約をどう思っているでしょうか」
「……何が、言いたい?」
ラウルは苛立ちを込めてクレイグを睨みつけた。だが、利いていないとばかりにクレイグは薄い微笑みで返し、さらに言葉を紡ぐ。
「アンナマリア様は以前から、自分の力量でアヴァンシーニ公爵夫人としてやっていけるのかと、不安を持っているご様子でした。そこに今回の婚約破棄の件が加わり、相当自信を失ってしまった。
そのため、今のアンナマリア様には、あなたは信頼できる婚約者ではなく、迷惑を掛けてしまっている婚約者として映っている」
「…………」
「アンナマリア様のことを大事に思っているのなら、後でお二人でよく話し合われてはいかがでしょうか?」
クレイグの諭すような言葉に反論することもできず、ラウルはただ黙り込む。
しかし次の瞬間、赤茶の髪を無造作に掻きむしると、敗北を期したように口元に笑みを刻んだ。
「お前って、ほんっとムカつく奴だよな」
「それはどうも。お褒めに預かり光栄です」
クレイグはくちびるの端を僅かに吊り上げ、不敵な笑みを浮かべる。
その笑顔は、普段真面目なクレイグが決して人前では見せることのない、少年のような無邪気さを秘めていた。




