第197話 それぞれの思惑
サムエル・アヴァンシーニ閣下は、歩き慣れた屋敷の廊下を急ぎ足で進んでいた。普段の不摂生がたたり、肺の奥に微かな息苦しさが滲む。
しかし息が切れることも忘れてしまうほど、アヴァンシーニ閣下は非常に焦っていた。
理由は、先ほどのマーガレットのひと言だ。
『アンナマリアを泣かせる方がいたら、絶対に許さない』
その言葉が自分に向けられたもののような気がして、胸の奥に静かな波紋を広げて私を捉えて離さない。
あれは私への脅迫なのか。それとも、ただの偶然なのか。
王家と二つの婚姻を結ぶフランツィスカ家は、ゆくゆくは王家に最も近い存在となるだろう。
おそらく、王家に次ぐ最高権力者のベノワ宰相をも凌ぐだろう。
はあ、こうしてはいられない。
秘書はまだ執務室にいるだろうか、急がなくては……。
「閣下、閣下! お待ちくださいませっ」
背後から自分を呼び止める声が聞こえる。
この甲高い声は、アンナマリアだ。
アンナマリア……
断りもなしにアヴェル派に鞍替えした、忌々しいカレドニヒの娘。
アンナマリアには罪がないことなど、重々承知している。
だが、この胸に渦巻いたカレドニヒへの失望を、誰かに押し付けずにはいられなかった。
呼吸を荒げたアンナマリアは肩で息を整えながら、ようやく足を止めたアヴァンシーニ閣下に笑いかける。
「はあ、はあ……よかった。追いつきましたわ」
「何用だ? 私は今、急を要しているのだが」
「まあ、そうですのね。では、これを……閣下にお渡ししたくって」
アンナマリアが取り出したのは、透明なオーロラ色の包装紙に包まれたクッキーだった。クッキーを見たアヴァンシーニ閣下は、すぐに怪訝な表情を浮かべる。
「私は甘い物が苦手だ。シャンパンといい、一体何度言えば」
アヴァンシーニ閣下の鋭い叱責がアンナマリアに叩きつけられる。
肩を震わせたアンナマリアはくちびるを噛み、拳を握りしめた。
閣下が甘い物が苦手なんて知らないし、炭酸が苦手だということも先ほど初めて知ったことだわ。
閣下に嫌われているのは重々承知している。それでも、私はラウル様と……。
アンナマリアは深く息を吸い込むと、閣下の叱責をも吹き飛ばす大声で言い放った。
「閣下が甘い物が苦手でいらっしゃると思いまして、トマトやオレガノで作った甘くないクッキーですのよ。どうか、ご試食くださいませ」
アンナマリアはクッキーの袋を差し出した。
差し出した手はふるふると細かく震えている。
いくら威圧しても引き下がらないこの不撓不屈の根性は、アヴァンシーニ閣下も認めざるを得なかった。
溜め息を吐いた閣下は、差し出されたクッキーをぞんざいに掴んで受け取り、荒々しく引き裂いて中のクッキーを頬張ってみせた。
生地はさっくりと舌の上で解けるように崩れ、爽やかな甘みの後に、トマトの酸味と旨味がじわりと口内に広がっていく。
正直今まで食べたどのクッキーよりも美味しく、思わず舌鼓を打った。
口の中のクッキーを舐めとりながら、アヴァンシーニ閣下は鋭い視線を向ける。
「先ほど作ったと言ったが、これはお前が作ったのか?」
「そうですわ。マーガレット様と一緒に作りましたの」
アンナマリアの言葉を耳にした瞬間、アヴァンシーニ閣下は全身に電流が走ったかのように飛び上がった。
驚愕の余り、思わず口元を押さえてブツブツと呟いている。
「マ、マーガレット様と!? 料理を共にするほどとは…………これはもしや」
「閣下? お口に合いませんでしたか?」
アヴァンシーニ閣下の妙に落ち着かない様子を不審に思ったアンナマリアは、そっと顔を覗き込んだ。すると閣下は突然顔を上げ、アンナマリアに微笑みかける。
「……いや、プロが作ったというほど大変美味であった。ラウルはトマトが好物だから渡すといい。喜ぶだろう」
「は、はい! ありがとうございます」
「それと」
アヴァンシーニ閣下は息を整えると、眉を寄せてくちびるを尖らせながら、アンナマリアを見据えた。そして複雑な感情を隠すように、ゆっくりと口を開く。
「これからは、アヴァンシーニ家に相応しい者となるよう、公爵家としての素養を叩き込んでもらうからな。気を引き締めるように」
「ふぁ……」
閣下の言葉を聞いて、アンナマリアは時間が止まったかのように呆然と立ち尽くした。
閣下が、私にアヴァンシーニ家のお勉強をしなさいと言っている。
それは、つまり……私はラウル様の婚約者でいられるということ?
「アンナマリア、聞いているのか?」
感極まって激しくまばたきを繰り返すアンナマリアの耳元には、アヴァンシーニ閣下の声がぼんやりと入ってくる。
閣下に、『アンナマリア』と面と向かって名前を呼んでもらえたのはいつぶりだろう。本当にアヴァンシーニ家の者として認められたみたい……みたいじゃなくて認められた、の?
突然、我に返ったアンナマリアは息継ぎも忘れて言葉を連ねた。
「閣下、アンナマリアはアヴァンシーニ家の者として 恥ずかしくないよう誠心誠意頑張りますっ!」
「ああ、是が非でもそうしてくれ……私は急いでいるので失礼する。君もさっさとカリーパーティとやらに向かいなさい。マーガレット様と懇意にするのだぞ」
アンナマリアの無垢な眼差しに耐えきれず、アヴァンシーニ閣下は逃げるように執務室へと急いだ。
―バタンッ。
執務室の扉が荒々しく開いた。
突然の物音に身体を小さく震わせた秘書は、すぐさまアヴァンシーニ閣下のもとへと駆けつけた。
「閣下、どうなさいましたか。王女殿下やマーガレット様にご挨拶に行かれたのでは?」
「それは済ませた。それよりも、カレドニヒへの手紙はどこだ? まさかもう、送ったのではないだろうな」
アヴァンシーニ閣下は執務室の暗がりに目を凝らし、キョロキョロと周囲を見回した。しかし、探しているカレドニヒ宛の手紙は見当たらず、苛立ちから閣下は顔を歪めている。
そんな閣下を凝視していた秘書が、机の端に隠れていた一通の手紙を取り出した。
「いえ、まだここに。何か不備がありましたか?」
「……すぐに破り捨てろ」
「え?」
秘書は手に持った手紙をじっと見つめ、目を丸くして立ち尽くしている。秘書の顔には困惑が滲んでいた。
秘書の戸惑いを一蹴するように、アヴァンシーニ閣下は激情を含んだ声で強く言い放った。
「手紙を破棄しろと言っているのだ!」
「しかし、カレドニヒ伯爵家との婚約破棄は」
「婚約破棄などしたら、それこそゼファ、いいやマーガレット様に何を言われるかわかったものではない。それに裏を返せば、アンナマリアのおかげで王室と深い繋がりができるかもしれん」
「あの、一体どういう……?」
アヴァンシーニ閣下は秘書の問いかけを無視し、勢いよく手を振ると威厳に満ちた声で命じた。
「とにかくだ、すぐにカレドニヒ家への援助を復活させろ。アンナマリアを褒める文面で援助の復活を報せる。だが決して下手には出るなよ」
「は、はい。今すぐっ」
秘書は半分も理解していなかったが、何か取り返しのつかない一大事であることは承知して、アンナマリアを讃える文章を認めるのだった。
その横で、アンナマリアから送られたクッキーを吸い込むように口に放り込みながら、アヴァンシーニ閣下は思案に沈む。
ゼファー殿下と我が息子ラウルは七歳の年齢差があるから、たとえ懇意にしてもらっても、右腕のミュシャ・ヴァレンタイン卿より親交を深めるのは難儀だ。
それならば、妻となるマーガレット様からアンナマリアで取り入るのも……。
上手くいけば、生まれた御子と我が孫が親しくなるかもしれん。
同性なら友に、異性なら……結婚。
アヴェル派に入ったカレドニヒも保険と思えば悪くない……うむ。
考えがまとまる頃には、クッキーの袋は空になっていた。




