第195話 アヴァンシーニ閣下登場
カリーパーティの会場は、色鮮やかな植物が息づく温室の中に設けられていた。
温室の植物の数々は、隣国のアデニ・アラビカ公国の亜熱帯の気候で原生する植物が多く、アデニ・アラビカの雰囲気でカリーパーティをという、ラウルの粋な計らいによるものなのだろう。
まるで別世界のような雰囲気に一同は感心して、植物の魅力を堪能している。
しかし物珍しい植物よりも、マーガレットの視線は中央の広場に設置された長テーブルへと向けられていた。そこに並ぶ、磨き上げられた銀食器の蓋の中身が期待を掻き立てていたのだ。
カレーの匂いはしないけど、きっとあの中に、念願のカリーがあるのね。
早く、早く食べたいわっ!
マーガレットが銀食器の蓋を見て涎を垂らしていると、後ろに控えていたクレイグがコホンと二回咳払いをした。
クレイグが二回咳払いをする時は、要注意人物登場の合図。
大半はゼファー様注意なのだけど、今回はゼファー様ではない。
本日の要注意人物は――
「シャルロッテ王女殿下、マーガレット様。我がアヴァンシーニの屋敷へようこそ」
振り返るとそこには、ラウルの父親のサムエル・アヴァンシーニ公爵閣下がにこやかな笑みをこちらに投げかけていた。緩やかに突き出た腹部と、どっしりとした体格は中年の風格を漂わせる体型である。
閣下は自信に満ちた表情とは裏腹に、相手を持ち上げて取り入るのが巧みなタイプの方だとアンナマリアから聞いている。
マーガレットは妃教育の賜物ともいえる華やかな笑みを咲かせると、アヴァンシーニ閣下に丁寧な会釈を繰り出した。
「アヴァンシーニ閣下、お邪魔しております。本日はお招きいただき感謝致しますわ」
アヴァンシーニ閣下は後頭部を掻くと、躊躇いがちに口を開いた。
「いやはや、申し訳ないです。息子の『カリーパーティ』などというワケのわからない食事会に巻き込んでしまって」
「うふふ、私がカリーを食べたいとお願いしましたの。ラウル様はとてもお優しいですわ」
「おお、そうだったのですか……なるほど。カリーで異国の食を学ぶ素晴らしいパーティですな」
マーガレットとアヴァンシーニ閣下の談笑の輪の外で、シャルロッテは仮面のような硬直した笑みを浮かべて、話に割り込んだ。
「マーガレット、ワタクシはあちらに行っていますね。アヴァンシーニ閣下、失礼します」
「シャルロッテ殿下も楽しんでいってください。そして、ゼファー殿下にもよろしくお伝えください」
シャルロッテは軽く笑みを返すと、アンナマリアとアリスのもとに逃げるように駆けていった。
ゼファー派であるアヴァンシーニ閣下と顔を合わせる機会が何かと多いシャルロッテは、褒めちぎる閣下のことを苦手にしているらしい。
シャルロッテって三度の飯より賛美される事が好きなイメージがあるのに、不思議ね。息子の嫁にと狙われているのが、何となくわかるのかしら?
シャルロッテが去り、一人になったマーガレットに狙いを定めた閣下は、褒め上手を開始する。
「マーガレット様、また一段とお美しくなられましたな。ゼファー殿下が羨ましいかぎりです。八歳のマーガレット様を見初めたゼファー殿下の審美眼は、流石でごさいますな」
「いえ、私なんて大したことないですわ」
「いえいえ。もうすでに王太子妃としての風格がございます。マーガレット王太子妃殿下と呼びたいくらいですよ。ゼファー王太子殿下とマーガレット王太子妃殿下、夫婦となったお二人はさぞお似合いでしょうな」
他人の将来に想像を膨らませて褒めちぎるアヴァンシーニ閣下に、マーガレットのくちびるは僅かに歪む。
マーガレットは小さく息を吐くと、笑顔を貼り付かせた。
「王太子妃殿下だなんて畏れ多いです。私の婚約はゼファー様の心根ひとつで変わるのですし、まだ早いですわ」
「いやいや、そんな謙遜なさらず。ゼファー殿下はマーガレット様を大層深く愛していらっしゃいますよ。もっと自信をお持ちください」
「……そう、デスネ」
アヴァンシーニ閣下の見当違いな励ましに苛立ちを覚えたマーガレットは、まるで水底に沈んだ魚のような、冷たく生気のない瞳を浮かべている。
謙遜なんて一ミリもしていないし、自信を持ちたいとも思っていないのに、何故だか勝手に決めつけられてしまったわ。
そして、シャルロッテの気持ちが理解できた気がする。
私やシャルロッテに対する誉め言葉は、すべてゼファー様に直結している。
一見、私たちを褒めているようで、本当はゼファー様を称賛している気がしてならないのだ。
日頃からゼファー様の前でも褒めちぎっているのかしら。
まさか、
『マーガレット王太子妃』といってゼファー様を煽てているんじゃ……ひえ。
途端に背筋がゾクリと凍え、マーガレットは身震いした。
そんなマーガレットの視界に、癒しのアンナマリアの姿が入った。アンナマリアは両手にグラスを持ってこぼさないように慎重に歩みを進めている。マーガレットとアヴァンシーニ閣下のために、ウエルカムドリンクを運んでいるようだ。
やがてたどり着いたアンナマリアは、柔らかな笑みを浮かべて鈴を転がしたような声で尋ねた。
「お二人とも、お飲み物はいかがでしょうか?」
「まあ、ありがとうアンナマリア。これはシャンパンかしら?」
「はい、そうです」
『シャンパン』と聞いた瞬間、にこやかだったアヴァンシーニ閣下の顔は一気に紅潮し、怒りに爆ぜる。
「私はシャンパンは飲まんッ! 前にも言っただろう、ワインを持ってこいっ‼」
鬼のような形相と厳しい叱責に、周囲のメイドたちも恐怖に凍りついたが、アンナマリアは動じなかった。
「すみませんっ。すぐにお持ちします」
と短く告げると、アンナマリアは身を翻してワインを取りに駆け出した。
声を掛ける間もなく走り去ったアンナマリアの姿を見守りながら、マーガレットはその笑顔に棘を隠してアヴァンシーニ閣下と視線を交わす。
「このシャンパン、とても美味しいですわ。飲まないなんてもったいないです」
「……マーガレット様は実にお優しい。私はどうも炭酸は嫌いでしてな。カレドニヒの令嬢は覚えが悪くて困っているのですよ」
マーガレットは同意の声は出さず、軽蔑を潜ませた微笑みを浮かべている。
自分の息子の婚約者に、なんて言い草なのかしら。
もう取り繕う気もない、本当に婚約破棄するつもりでいるのね。
ラウル様と婚約破棄して、悲しむアンナマリアの顔なんて見たくない。
アンナマリア、安心して。
私が絶対にそんなことにはさせないから。
私はアンナマリアのために、これから『ある作戦』を決行する!
自分に言い聞かせるように、マーガレットはコクリと力強く頷いた。




