第183話 予想外の抑圧者
「ふん、ふん~ふんふ~ん♪」
弾ける笑顔を浮かべたマーガレットは上機嫌に鼻唄を口ずさみながら、軽やかな足取りで校舎の廊下を歩いていく。
その少し後ろを控えめに歩くクレイグは、「今日、そんなに機嫌が良くなるようなことがあっただろうか」と思案し、首を捻った。
いくら考えても、クレイグが答えにたどり着くことはないだろう。
マーガレットの機嫌が良いのは、ここ数日の間に、アリスとアヴェルが会話している場面を何度も目撃したからなのだ。
今日も廊下で二人が談笑しているのを見かけた。
一体どんな会話の内容なのかと気にはなったが、聞き耳なんて野暮なことはしない。もう、これはアヴェルルートまっしぐらなんじゃないかしら。
私はアヴェルの婚約者でないのだから、悪役令嬢としてアリスに意地悪しなくていいし。ただ、代わりの悪役令嬢が現れる可能性は十分にある。
最初のいじめイベントだって、私がアリスをいじめなかったら、代わりに取り巻きの子たちが嫌がらせするように改変されていた。
できれば何事もなく、アリスには平和な学園でハッピーエンドを迎えてほしい。
アリスの幸せを切に祈っていると、不意にクレイグの落ち着いた声が耳に入る。
「お嬢様。あの方、アリスさんではないですか?」
クレイグの視線の先を見ると、廊下の奥の教室に入っていくアリスの後ろ姿が確認できた。突如視界に映り込んだアリスの姿に戸惑ったマーガレットは、思わず疑問の声を漏らす。
「本当だわ。図書館に行くって言っていたのに、こんなところでどうしたのかしら?」
「そうですね。それに少し思い詰めた顔をしていたような……」
クレイグは顎に手を置き、思案を巡らせている。
そのクレイグを横目に、マーガレットは胸に浮かんだ疑問を投げかけた。
「え、よくそんな細かな表情まで見えたわね? 私には遠すぎてぼんやりとしか見えなかったわ」
「僕の視力はとても良いので……お嬢様と違って、夜中にベッドの上で本を読んだりしませんから」
クレイグが何気なくポロッと口にした言葉に、マーガレットの肩は跳ねるように動く。
「な、何で知ってるのよ!?」
「朝起こしに行くと、ベッドに恋愛小説が山積みになっているじゃないですか」
「あー、あはははは」
言い逃れのできないマーガレットは、笑って誤魔化すしかなかった。
こ、これからはクレイグに見つからないように気を付けよう。
反省した様子のマーガレットを一瞥したクレイグは、クスリと笑みをこぼしながら助け舟を出す。
「それで、どうなさるのです?」
長年、マーガレットの従者を務めているクレイグには、返事を聞かなくとも主の答えはとうに確信があった。
それでも尋ねるのは、主人と従者のちょっとした阿吽の呼吸のようなもの。
マーガレットは優美な流し目でクレイグを捉えると、くちびるの端を上げて悪戯っぽく微笑んだ。
★
マーガレットたちが例の教室の扉の前で立ち止まると、女性の鋭い叱責が微かに漏れ聞こえた。
もしかして……また、いじめイベントなのかしら。
前回のイベントと同じく颯爽と助けると思われたマーガレットだが、ドアノブに手を掛けたまま、くちびるを噛みしめて躊躇している。
前回のいじめイベントの時、女生徒たちからアリスを助けたことが正しかったのかと、マーガレットは悩み、そして後悔していた。
私がイベントに介入したことで、アリスの行動を阻害し、迎えるはずだった未来に変化が生じてしまったかもしれない。
もしそれで、アリスが掴むはずだった幸せな未来が消えてしまったら…………やっぱり助けるのはよそう。
マーガレットがドアノブから手を離そうとしたその時――
「バートレットさんっ! あなた、どういうつもりでアヴィと」
――ん!?
教室から響き渡る聞き馴染みのある声に、マーガレットは耳を疑った。
この声……それに『アヴィ』って?
アヴィなんて呼ぶのは、私とあの子くらいしか……まさか。
悩み、後悔したことなど忘却の彼方へ放り投げ、マーガレットが勢いよく扉を押し開けると、そこには——
「しゃ、シャルロッテ!?」
「え、マーガレット!!?」
教室の中心では、第三王女シャルロッテとその取り巻きの女生徒六人が、敵意を剥き出しにしてアリスを睨みつけていた。
教室の隅には、シャルロッテの従者ミゲルが申し訳なさそうに頭を下げている。
呆れたように溜め息を吐いたマーガレットは、眉をひそめながら『どういうこと?』とシャルロッテを刃物のように鋭く睨みつけた。
当のシャルロッテは元祖悪役令嬢の睨みに怯むこともなく、何か閃いたようにポンッと手を叩くと、マーガレットの手を掴む。
「マーガレット、こちらにいらして」
シャルロッテはマーガレットの手を引いて自分の位置に立たせ、アリスと対峙させると、満足そうに納得した表情で頷いている。
その見覚えのある構図に、マーガレットは驚愕した。
これは……まさに悪役令嬢マーガレットがヒロイン・アリスをいじめる有名な静止画だわ!
あまりの衝撃にマーガレットは息を呑み、呆然とその場に立ち尽くした。
すると、この構図を作った張本人のシャルロッテが熱を帯びた声で、勢いよく語り出す。
「まあ、やっぱり! 不思議と吃驚するくらいしっくりくるわ。ねえ、マーガレット。ワタクシではどうにも迫力に欠けるから、代わりに怒ってくださらない? あなたには眼力があるから適任です」
「代わりって……私はアリスのお友達なのよ! 代わりっていうのなら、アリスに代わってシャルロッテとやり合うから!」
「ええ~っ、そんな悲しいこと言わないで。十年来のお友達じゃない。ね、おねがーい」
シャルロッテは両手を合わせて右頬に添え、誘うような上目遣いでちらりと見上げると、仔猫にも似た甘い声を奏でた。
女神の生まれ変わりとも称される王女のおねだりポーズが、可愛くないわけがないっ。いつの間にそんな色仕掛けを覚えたのよ、シャルロッテ!?
幼馴染みの花開いた艶やかな成長に、経験の差を感じると共に、マーガレットは気不味さを噛みしめるのだった。