第177話 其の指輪は、かくも囁く
アリスが恥ずかしさに頬を紅潮させても、マティアスの言葉の猛攻は止まらない。マティアスはマーガレットを無遠慮に指差しながら、アリスに向かって首を激しく振って訴えかけた。
「アリス、コイツはやめといたほうがいいぞ。コイツと二人きりで話してみろ。 嫉妬に狂ったゼファー殿下から、どんな仕打ちを受けるか……ん、でもアンタは女だし、嫉妬の対象外か? まあ、俺みたいな底辺騎士は辺境の地に飛ばされちまうだろうけど……なあ?」
左眉を上げ、ニヤりと薄笑いを浮かべながら、マティアスはマーガレットに返事を求めている。
マーガレットの戸惑いを楽しむような態度に、ただ苦笑するしかなかった。
「私に言われても……でも、やめておいたほうがいいのは間違いないでしょうね」
瞬間――噴水周辺に突風が吹き荒れた。
マーガレットがなびいた髪を左手で庇うと、左手薬指の指輪が鋭い閃光を放つ。
目映く光った紫色の宝石が、まるで誰かさんの瞳のようで、『彼女は私のものだ』と睨みを利かせているようだ。
その場にいた皆は身も竦むような悪寒が走り、全員黙り込んでしまった。
しかしその沈黙を破る、透き通った明るい男性の声が背後から響いた。
「なになに? 新入生の君たち、こんな噴水の前に男女で集まって恋の話かな?」
―この声、それにこの台詞、フェデリコ・フィリオ先生の登場シーンの……
声の主に気付いたマーガレットは、フェデリコとの間にあった件など忘れて踵を返す。案の定、マーガレットに気付いたフェデリコの顔が凍りつく。
「「あ」」
マーガレットとフェデリコの間に合った事件を知っている一同は、皆一斉に声を上げた。
マティアスは悪戯っぽく笑いながら、「そら、被害者だ」とフェデリコの耳に届かぬように呟く。すぐ隣にいたアヴェルはその言葉を拾い上げ、奇跡のようなフェデリコの登場に思わず噴き出した。
アヴェルは変なツボに入ってしまったようで、腹を抱えて笑っている。
凍りつくフェデリコに、堪え切れず笑うアヴェル、場を荒すマティアスという悲惨な三竦みに、マーガレットは目を細める。
あー、ここは私がなんとかしなきゃ。
マーガレットはにこやかな笑顔を貼り付けると、フェデリコに向かって丁寧にお辞儀をした。
「お、お久しぶりです、フェデリコ様。いえ、ここではフェデリコ先生とお呼びしたほうが宜しいでしょうか」
「や、ややあ、マーガレット嬢。久しぶりだねー。うん、ボクのことは『フェデリコ先生』と呼んでもらえると助かるよ…………えと、今日は良い天気だねー」
「本当ですね……明日も晴れるのかしらー」
うわずった声であたり障りのない会話を続ける二人に、アリスは小首をひねる。
この二人は知り合いらしいのに、どうしてこんなにぎこちない会話をしているのだろう。
気になったアリスは、後ろで見守っていたクレイグに小声で尋ねた。
「すみません、クレイグさん。あのお二人は何かあったのですか?」
アリスの質問にクレイグは一瞬顔を強ばらせたが、アリスには言っておいたほうがいいかと思ったのか、静かに口を開いた。
「……二年前のことですが、マーガレットお嬢様のご婚約者、つまりゼファー王太子殿下にお二人は仲を疑われたのです。それが原因で、フェデリコ先生のご実家は降爵されそうに、つまり爵位を下げられそうになったのですが……お嬢様がどうにか捨て身で説得なさいました」
「捨て身?」
「そこは触れないでいただきたいです。失言でした」
焦りの見えたクレイグの早口に、アリスは理解を示して話を変える。
「クレイグさん、今のこの状況は大丈夫なのでしょうか。仲を疑われたお二人が話されてますけど」
「ここは学園で密室ではないですし、アヴェル殿下やマティアス、様もいますから心配はないかと……それにゼファー殿下の護衛騎士も後ろで見守っていますから、報告はされるかもしれませんが、大事に至ることはないと思われます」
「ほっ、それならよかったです」
アリスとクレイグが会話を交わすうちに、マーガレットとフェデリコはだんだんと緊張が解け始め、昔の二人の空気が甦っていく。
フェデリコはズレてきた眼鏡を直しながら、マーガレットに深々と頭を下げた。
「マーガレット嬢、君が元気そうでよかった。あの時は迷惑をかけてしまって本当にすまない。イグナシオから聞いていたんだ、君がゼファー殿下に直談判しに行ってくれて降爵は取り消されたって。君に会って直接お礼を言いたかったんだけど、父に止められてしまって」
「その件については気にすることはありませんわ。
フェデリコ先生こそ、私のせいでフィリオ家に災厄をもたらしてしまい、本当に申し訳ありませんでした」
「そんなことはないよ。君に勉強を教えたのは僕の意思だったし、他人から君との関係をそういう風に捉えられたのは……(ボソッ)光栄だったし」
囁くようなフェデリコの声は風音に消え、最後の呟きはマーガレットの耳元で微かに響いただけで、はっきりとは届かなかった。
すると、フェデリコの背後から逞しい腕がガバッと覆いかぶさる。
「フェデリコ先生ぇ、先生がいち女生徒に色目使っちゃダメっスよ~?」
「ばっ、何を言って……マティアス・グリンフィルド君。先生をからかうものじゃないよ」
照れを隠すように、フェデリコはマティアスの大きな腕を振り払った。
しかしマティアスの分厚い腕は、フェデリコの細腕では少し持ち上げるのがやっとだ。マティアスはフェデリコの細腕と戯れながら、ある事に気付く。
「ん? 俺の名前。今日は入学初日なのに、覚えててくれたんスか」
「君は有名だからねぇ、嫌でも覚える」
「俺って有名なんだってよ、聞いたかアヴェル」
碧い瞳を輝かせたマティアスは嬉々としてアヴェルに話を振ったが、何かを察したらしいアヴェルは流すように返した。
「ああ、そうらしいな」
「へへーん」
鼻高々に威張っているマティアスをよそに、フェデリコはマティアスの耳には届かぬようボソリと言葉を漏らす。
「ま、要注意人物として有名ってことなんだけどね……あれ、君は」
フェデリコの目先にいたのは、目の前で繰り広げられる貴族たちの言葉の応酬を、一歩引いて傍観していたアリスだった。