第170話 2年後の私
食堂の扉を開けたマーガレットを迎えたのは、両親二人が穏やかに朝食を摂る光景だった。
兄のイグナシオは、すでに仕事へと向かったらしい。
両親と朝の挨拶を交わし席に着くと、待機していたメイドがいそいそと食事を運んでくる。マーガレットが皿に目を落とし静かに食べ始めると、食事の手を止めた母のレイティスがこちらを鋭く見つめる。
「マーガレット。クレイグから聞いたわ。王太子殿下から婚約指輪をもらったんですって? どんな指輪って、あら? 着けていないのね。とても気に入ってずっと浮かれていたと聞いたのだけど」
レイティスは、マーガレットの後ろに控えているクレイグにちらりと目をやる。
二人のやりとりに気付いたマーガレットは眉をひそめた。
もう婚約指輪のことを知っているなんて、昨晩から明朝の間にクレイグからしっかりと報告を受けているらしい。
一緒に報告を受けたらしいお父様も、生暖かい笑顔でこちらを見つめている。
この三人は妙に仲が良いのだ。解せぬ……。
クレイグは静かに頭を下げる。
「申し訳ございません、奥様。起床された時は着けていらっしゃったのですが、部屋を出る前に外されたようです」
「あら。そうだったの……もしかして、ひと晩経って劇の熱も冷めて、その指輪の本当の意味に気付いたのかしら」
「う……」
マーガレットは言い返す言葉も見つからず、ぐうの音もでない。
悔しそうに俯いたマーガレットの様子に、その場にいたセルゲイ、レイティス、クレイグ。そして家宰のジョージと二人のメイドを含めた全員が、マーガレットが指輪の意味を理解していなかったことを理解した。
すると、その場の空気に耐えきれなくなった父・セルゲイが、堪えきれず「ぷっ」と笑い出す。
「フフフッ……いやいや、すまない。笑うつもりはなかったんだが、婚約指輪だと気付かれないなんて、ゼファー殿下には流石に同情してしまってね。フフ」
「あんなヤツに同情するなんて、セルゲイったら優しいのね。
婚約者から指輪をもらう意味なんて最初から決まっているのに……まったくマーガレットも鈍感なんだから。その場の空気に飲まれて、『指輪をもらえて天にも昇る気持ち』とか言ったんですって!? 王太子もさぞかし上機嫌だっただろうこと」
「……はい」
その通り過ぎて、言い返す言葉もございません。
非常に上機嫌なゼファーに抱きしめられて、嫌なフラグも立てたような気がします。あれが気のせいならいいのだけど……不安しかない。
食事を終えたセルゲイは食後のコーヒーを嗜みながら、小さくなった娘を援護した。
「レイティス、まぁそのくらいにして。マーガレットの食事が止まっているだろう。それに、婚約者と仲良くするのは良いことだよ」
「っ!? 婚約者って! マーガレットは無理やり婚約させられているだけよ。王命まで使われては断る手段がないから、仕方なく……」
怒りでくちびるを噛みしめるレイティスに気付いたが、セルゲイは心を鬼にして話を続けた。
「それでも、ゼファー殿下が婚約者なのは周知の事実だろう。それにあと二年もすれば、マーガレットはその無理やり婚約した相手のもとに本当に嫁ぐことになる。だったら、もうそろそろ結婚後の在り方についても考えなくてはね。レイティスがそんな態度では、ゼファー殿下と良好な関係を築くのは難しいと思わないかい?」
「わかってるわ、わかっているのよ。でも、そんなことって……自分の人生なのに、選択肢もなく決められてしまうなんて……私の娘は、マーガレットは物じゃないのよッ!」
レイティスのフォークを持つ右手が震えて皿にあたり、食堂にカタカタとした金属音が鳴り響いた。
いつもなら優しくレイティスをなだめるセルゲイが異議を唱えたことで、食堂は金属音以外の物音が消え、しんと静まり返る。
配膳していたメイドたちも、見守っていた家宰も一寸たりとも動かず、まるで空気のように透明人間のように振る舞っている。
マーガレットも両親に何と話しかけていいか思いつかず、目を伏せる。
すると、背後からクレイグが替えのナイフを持ってきた。
え? 別にナイフは落としていないのに、どうしたの?
クレイグはマーガレットの耳元で、マーガレットにしか聞こえないくらいの小声で囁いた。
「昨日の劇の話など、なさってはどうでしょう」
「っ!? ……そうだわ、お父様、お母様。まだ昨日の劇の話をしていなかったわね。ぜひ私の話を聞いてちょうだい」
「突然どうしたの!?」と両親二人は面食らったようだが、マーガレットが大好きな俳優ブルック・プディカスティに会えたこと、サインをもらえたこと、ターニャが興奮しすぎて寝込んでしまったことを、掻い摘んで話した。
怒りに震えていたレイティスも楽しそうに話す娘を見ているうちに、笑顔を取り戻していく。
マーガレットは思っていた。
家同士の結婚は貴族の務めと、利益ある結婚を強要しない両親には感謝しかない。私がこのまま二年後に王家に嫁ぐのなら、この大切な二年間はお父様とお母様には笑顔でいてほしい。
幽閉イベントの時期が過ぎたら、ゼファー様にうんと我が儘を言って、嫌われて婚約破棄できないか試してみよう。
そうしたら今と変わらず、お父様とお母様と一緒にいられるかしら。
……そうしたら、クレイグとも一緒にいられる、かしら。
こうして、いつもと変わらぬ朝食の時間は過ぎていった――