第152話 従者のささやかなる希望
控え室では、二階のボックス席から急いで降りてきたマーガレットとターニャが、クレイグの帰りを首を長くして待っていた。
男ばかりの掃き溜めに現れた可憐な少女二人は、他の騎士たちからも注目の的である。
二人に気付いたグリンフィルドは、マティアスに肩を貸しているクレイグに声をかける。
「クレイグ、マティアスは私が連れて行くから、君はマーガレット様のところへ行くといい。ここだと目立つだろうから、そこの奥の私の休憩室を使いなさい」
「グリンフィルド先生、ありがとうございます」
「いや、こちらこそだよ。君にはマティアスのことで迷惑をかけたうえに、私たち親子のことでも感謝してもしたりないくらいだ」
「クレイグ、俺からもサンキューな!」
擦り傷だらけの顔でにんまりと笑うマティアスは、心なしか試合前よりも溌剌としている。
マティアスは、まるで昔からそうしていたかのように「親父殿、早く行くぞ」と呼びかけた。不仲だったのは今は昔、グリンフィルド親子は他の騎士たちに驚きを振りまきながら、医務室へと向かった。
マティアスとグリンフィルドの肩を並べる姿を見て、マーガレットも驚いた顔を見せている。マーガレットとターニャはグリンフィルド親子に一礼すると、真っ直ぐクレイグのもとへと駆け寄った。
クレイグは奥の休憩室へと二人を招き入れる。
休憩室はこじんまりとしていて、真ん中にテーブルと椅子があるだけの簡素な造りの部屋だった。
部屋に入って早々、マーガレットはクレイグの両手を握り心配そうに顔を覗いた。絹のように滑らかな手が、擦り傷とアザだらけの両手を優しく包み込む。
「やっぱり怪我してるじゃない。怪我は私の賜物じゃ治せないし、あなたも医務室に行かなきゃ」
「そ、そうですね。あとで行くことにします」
「でも……今行ったほうが」
医務室へと促すマーガレットの言葉を遮るように、クレイグは声を大にする。
「それよりも! まず、お嬢様からの試合への賛辞の言葉がほしいです」
「え!?」
「そのために頑張ったのです。だから、その……褒めてください」
試合後の高揚感と握られた手の温もりに絆されたのか、いつもなら絶対に口にしないようなことを言ってしまった。
お嬢様がとても困惑してるじゃないか。
戸惑いながらも、マーガレットは照れた様子でぼそぼそと言葉を紡ぎ始める。
「……試合はとってもハラハラして、見ていられなくって目を瞑りたくなったけど、クレイグが勝つって信じてたし、その……クレイグが勝った時、すごく嬉しかった。それにす、すっごく恰好良かったわ」
恰好良いと褒めてもらえたことに嬉々としたクレイグは、思わず握られた手を握り返した。すると、マーガレットは頬を紅潮させながら手を引っ込める。
「あ……私、ずっと握ってて、ごめんなさい」
「い、いえ」
本当はずっと握っててもいいのですが。
マーガレットに付き添っていたターニャは、クレイグに向かってグッと親指を突き立てて賛辞を送ると、マーガレットに気付かれないように物音ひとつ立てずに部屋を出て行った。
ターニャなりの気遣いなのだろう。
この前の例のくちづけの件から、お嬢様の僕を見る視線が、ほんの一瞬だけど長く留まるようになった気がする。
胸の奥を甘いざわめきがくすぐり、やけにこそばゆい。
しかしクレイグの頭の片隅には、試合中に耳に入った『ある言葉』がこびりついていた。
「あの……聞き間違いではないと思うのですが、試合中に『ごめんなさい』と言いませんでしたか?」
「言ったわ! 聞こえてたのね」
「あれはどういう意味だったのでしょう?」
マーガレットにフラれた絶望の瞬間をクレイグが想像した時、絶妙なタイミングで発した「ごめんなさい」の真意を聞きたかったのだ。
目を伏せたマーガレットは、どこか思い詰めたように重い声で呟く。
「試合の途中で、クレイグはとても怒っていたでしょ」
「……はい」
「あの時、クレイグが試合に出るのをとても渋っていたのを思い出して、やっぱり出たくなかったんだと思ったの」
「……はい?」
「それで、あなたの意見を聞かずに無理やり試合に参加させるような真似をして、ごめんなさいって謝っていたの」
「…………ぶっ」
深刻な顔をして今さらなことを言うマーガレットに、クレイグは不覚にも吹き出してしまった。なぜ笑われたか見当もつかないマーガレットは、首を傾げる。
「ええ、どうして笑うの!?」
「ふふっ、あなたって人は……でも、お嬢様が謝ってくれたおかげで僕は勝てたんです……(ぼそっ)それと、フラれたんじゃなくてよかった」
安堵から顔を掻いたクレイグの頬には、真新しい血の痕が滲んでいた。
その鮮やかな赤色に、マーガレットの胸の奥がヒリヒリと悲痛な叫びを訴える。
ざわめく感情の赴くまま、マーガレットはクレイグの胸に飛び込むと、両手を伸ばしてクレイグの背をギュッと包み込んだ。
「っ、お嬢様……!?」
マーガレットの温かく柔らかな感触に包まれ、クレイグは思わず息を呑み、時が止まったような感覚に囚われる。
まるで世界は、マーガレットとクレイグの、二人だけのようだった――