第147話 機転
―ゴォンっ。
ボックス席に骨と骨が衝突し合う、鈍い音が鳴り響いた。
一瞬の躊躇いもなく、マーガレットは弾丸のような勢いで、マティアスの額に怒りの『頭突き』を叩きこんでいた。
あまりの衝撃にマティアスはよろめき、座り込む。
すると、クレイグがすぐさまマティアスの上半身を羽交い締めにし、ターニャは足に間接技をかけて動きを封じた。
「すみません、少し遅れましたっ。大丈夫ですか、お嬢様!?」
「おでこと頭以外は大丈夫よ。あー、まだ頭がぐわんぐわんしてる」
頭の中で銅鑼を鳴らされたような衝撃に顔を歪めながら、マーガレットは赤く腫れてきた額を優しく撫でている。
石床にへばりつくマティアスを、ゴミムシでも見るような目で睨みつけているターニャは、いつもより低い声でクレイグに何事か囁いた。
「ねえクレイグ。こいつ沈めようよ」
「奇遇ですね、僕もターニャに賛成です。王都から少し離れた森の外れに、ちょうどいい底なし沼があるんです」
幼少の頃から知っている私の従者と侍女が、とても悪い顔をして悪巧みをしている。
マーガレットが呆気に取られていると、ある人物が笑いを堪え切れずに声を上げて吹き出した。
「プッ、くくく、フハハハハ! 侯爵令嬢が頭突きして、その従者と侍女は騎士を沈めようとするとか……お前らどこのゴロツキだよっ、くくく」
マティアスが笑みを漏らすと、押さえつけているクレイグとターニャの身体が僅かに揺れ動いた。
何とも滑稽なその光景に、マーガレットは溜め息を吐く。
「はぁ……二人とも。押さえられていると笑うのも大変そうだから、マティアス様を離してあげて」
「ですが」
「でも」
「大丈夫。こんなに笑ってたら、もう何もできないでしょ」
納得いかないようなクレイグとターニャだったが、マティアスの身体からそっと手を離した。
その時、
―ダンダンダンダンッッ!
扉を激しく叩く音がボックス席に鳴り響いた。
「マーガレット様、大丈夫ですか! 隣にいた騎士が何か」
ゼファーの付けていた監視が、今の騒ぎに気付いてやって来たらしい。
不幸中の幸いか、扉は鍵がかかっていて開かないようだ。
しかしいつまでも籠城するわけにもいかず、マーガレットは眉をひそめる。
どうしよう。
このままじゃ、マティアスもフェデリコのように制裁されてしまう……。
何かないかと、マーガレットは周囲を見回した。
すると、席の近くの床に転がっている『あるもの』に目を留める。
あ、これなら……。
何か閃いたマーガレットは腫れてきた額を前髪で隠すと、扉の外に聞こえないように小声で呟いた。
「クレイグ、開けて」
「お嬢様、大丈夫ですか」
「ええ、大丈夫よ。考えてあるわ。マティアス様、あなたはひと言も話さないでそこに座って黙っていて」
マーガレットの咎めるような眼差しに、マティアスはうんざりした口調でひと言呟いた。
「へいへい」
「クレイグ、開けてちょうだい」
クレイグの真紅の瞳を真っ直ぐに見据え、マーガレットはこくりと頷いた。
呼応するようにクレイグも頷くと、ゆっくりとドアノブへと手を掛ける。
扉を開けると、ゼファー直属の屈強な護衛たちがわらわらとボックス席へと雪崩れ込んだ。
一、二、三、四……ご、五人!?
普段は一人なのに、外出となるとこんなに監視されているのかと、マーガレットも驚くほどだった。
その驚きを隠すように、マーガレットは妃教育で身に付けた、誰にでも好かれるとびきりの笑顔を騎士たちへと振り撒く。
「まあ、騎士様たち。心配をかけてすみません。実は私の肩に『蜂』が止まっていて、それに気づいたこちらの騎士様が自分を犠牲にして守ってくれたのです。
おかげで騎士様のおでこはこんなに腫れてしまって、本当に申し訳ないですわ……でも蜂はあの通り、退治されたのでもう大丈夫です」
マーガレットが視線で促した先には、蜂の死骸が転がっていた。
蜂の死骸とマティアスのたんこぶを交互に見た護衛騎士たちは、納得したらしく肩の荷を下ろす。
「そういうことでしたか。それならば、私たちは持ち場に戻らせていただきます。それでは失礼いたします」
―バタン。
扉が閉まると、「はぁ―――~っ」と皆が一斉に溜め息を漏らした。
胸を撫で下ろしたターニャは、緊張から解放されたように笑みを浮かべる。
「ふぅ、危機一髪だったね」
「お嬢様の機転がなければどうなっていたことか。またゼファー殿下のもとへ弁解に行くところでしたよ」
「信じてくれてよかったわ。マティアス様、あなたはこの蜂さんに感謝しなくてはならないわ」
三人の安堵とは裏腹に、マティアスは反省している様子もなく、ケラケラと楽しそうに笑っている。
その様子にクレイグは怒りがこみ上げたが、拳を握りしめてぐっと堪えた。
なおも笑い声を響かせるマティアスは、笑いすぎて痛くなった腹部を押さえながら声を漏らす。
「ふはっ、あの王太子殿下直属の精鋭揃いの騎士隊に口から出まかせ言って、とんだ侯爵令嬢様だな。ま、嫌いじゃないが」
「まさか侯爵令嬢が頭突きして、あなたのおでこがそんなに腫れただなんて、精鋭揃いの騎士様たちも見抜けなかったでしょう?」
「ふはは、恐れ入ったよ」
クレイグはターニャに何事か伝えると、ターニャはマーガレットのもとへと向かい、額の手当てを始める。
その様子を見届けたクレイグは音もなくマティアスに忍び寄り、マティアスの肩をがっしりと掴んだ。
その刹那、空気が凍りついたように重くなる。
「マティアス様。先ほどからのお嬢様に対するその失礼な態度を、改めてはいただけませんか。お嬢様はあなたを突き出すこともできたのですよ」
ターニャに額の手当てをしてもらいながら、マーガレットは心配そうに二人を見守っていた。
クレイグから滲み出す殺気を感じ取ったマティアスは、この殺伐とした空気を楽しむように、上機嫌に口元を歪ませる。
「へぇ、あんた……確かクレイグだよな? 無口で忠実な従者なのかと思ったら、なかなか熱いねぇ」
肩に置かれたクレイグの手を乱暴に振り払ったマティアスは、心の奥に巣食うわだかまりを吐露し始める。
「グリンフィルド殿から、あんたら三人は強くて大変優秀だと聞いている……
特に従者のクレイグさんよ。あんたは剣の筋がいいから将来有望だと、騎士団長が自ら騎士にならないかと誘ったらしいな?
でもお嬢様の従者だからと、断られてしまったと聞いた……本当はグリンフィルド殿は、あんたみたいな才能のあるヤツを息子にしたかったんだろうな」
その一語一語には、マティアスの穿った感情を紐解く鍵が隠されているようだった。しかしその感情を一蹴するように、クレイグは冷ややかに呟く。
「それは、違うと思いますが」
「何が違うってんだよ!」
「……あなた、幼稚すぎませんか」
「はぁぁぁッ!?」
クレイグが何か言う度にマティアスが食ってかかるものだから、次第にクレイグも苛立ちを露わにし始めた。
二人の口論に耳を傾けていたマーガレットは、腕を組んで深々と思案を巡らせる。
なるほど。
グリンフィルド先生がクレイグを称賛したものだから、マティアスはすっかりへそを曲げちゃったわけだ。
おそらく、先生は普通に自分の弟子について話しただけだったのに、拗らせマティアスは変な方向に捉えちゃって、クレイグに嫉妬したのね。
それにしても、あんまり騒ぐとまたゼファー様の騎士たちがくるから、やめてほしいのだけど。
マーガレットは苛立たしげ息を漏らすと、椅子にそっと手を添えた。