第146話 マティアスの狙い
事あるごとにマティアスが口にする『ウワサ』というフレーズに、マーガレットは心に宿ったある疑問をついに投げかけた。
「そのウワサって私にまつわることなのですか、マティアス様?」
「あー、ウワサっていうのは王太子のこととかいろいろあるが……
俺が言ったウワサは、いつも表情ひとつ変えないアヴェルがマーガレット嬢にだけはデレデレになるってことだな」
「っ!? マティアス、そういうことは言うなと」
マティアスの言葉に、アヴェルは振り向いて過剰な反応を覗かせている。
怪訝な表情で睨みつけてくるアヴェルに、マティアスは声を上げて笑った。
「ははは、ごめんなアヴェル。あ、言うの忘れてたけど、副団長からお呼び出しがかかってたから、すぐに行ったほうがいいぞ」
「なに!? ……あとで話があるからなマティアス」
そう捨て台詞を残すと、アヴェルは急いで副団長のもとへ向かう。
この数分の間に、マティアスはグリンフィルド先生とアヴェルからお説教の約束をもらってしまった。
ここにいると、私もあとでお説教したくなるかもしれないし、そろそろお暇したほうがいいわね。
マーガレットが退散しようと踵を返すと、マティアスがマーガレットの眼前に立ち塞がって恭しく手を差し出す。
「マーガレット様。俺はあなたを観覧席へと案内するように承りましたので、ご案内いたします。どうぞお手を」
突然の改まった話し方に驚き、マーガレットが無意識に手を出すと、マティアスは丁寧なエスコートで貴族用のボックス席へと案内した。
手を取り付き添う、紳士的なふるまいのマティアスに、マーガレットは困惑の表情を浮かべている。
クレイグはというと、マーガレットの後ろでマティアスを注意深く観察していた。すると視線を感じて振り返ったマティアスが口元を吊り上げ、薄く笑った。
その笑みはクレイグを嘲笑うかのような、挑発的な響きを秘めているようだった。
音を立てずそっと椅子を引き、マーガレットに席を勧めるマティアスの振る舞いは、気品に満ち溢れた騎士の手本のような見事なエスコートだ。
「さあどうぞ、マーガレット様。お足元にお気を付けください」
「あ、ありがとう」
マーガレットが腰を下ろすと、
―ガタッ。
刹那、さっきまでの紳士的な振る舞いが幻だったかのように、マティアスは乱雑に隣の椅子へと腰かけた。そして満足そうに言い放つ。
「どうだった?」
「…………何がでしょうか」
決してマティアスのほうは向かずに、マーガレットは小さな声で囁いた。
その冷ややかな態度にマティアスは、不本意そうに顔を歪める。
「だからさ、女が好きそうな優雅で気品あふれる騎士様を演じてみたけど、どうだった?」
「……なるほど。それでしたら私が席に着いたあと、『ごゆっくり』とでも言って退出してくだされば完璧でしたね」
「えー、それじゃ感想聞けないだろ」
マティアスの行動の意味が、マーガレットには理解できなかった。しかし、これ以上追及するのは、なぜだか嫌な予感がして躊躇われた。
マティアスは遠慮なしに話を続ける。
「こういう普段と違うギャップにときめくんだろ」
「私をときめかせても何の意味もありません……あなたもウワサを知っているのでしょう」
「ああ、フィリオ家の息子と懇ろになって、怒り狂った王太子が降爵騒動を起こしたってウワサだろ……っていうか、何でずっと前向いて喋ってるんだ? こっち向けばいいのに」
「私にはクレイグとターニャの他にも、ゼファー殿下の付けた護衛がいるのです。私に近付く男性は、すべて殿下に報告されてしまいます。
今日は他にも監視がいるようですし、私があなたに顔を向けて話せば、もしかしたら明日にはグリンフィルド家も…………グリン、フィルド家も」
あ、そっか!
マティアスの狙いがわかった。
私はグリンフィルド先生を悩ませる問題を起こすのに、ちょうどいいトラブルなんだわ。
自分を利用するまでは許せる。
でもマティアスの子供じみた我が儘で、恩義を感じている先生をどん底に突き落とすなんて、絶対に嫌よ。
完全拒絶のマーガレットに痺れを切らしたマティアスは、くちびるを僅かに歪ませるとニヤリとした笑みを浮かべた。
するとマーガレットの華奢な肩をマティアスの逞しい腕が掴み、ぐいっと引き寄せる。
その瞬間――マーガレットの脳裏には、ゼファーのご機嫌を取るために首すじや耳にくちづけされた屈辱の日が蘇る。
それはマーガレットにとって、癒えることのない忌まわしいトラウマとして、今も胸に巣食っていた。そのトラウマを呼び起こされたマーガレットの怒りは、まるで煮えたぎる溶岩のように熱く熱く焦げていく。
私はトラブルを避けようとしているのに、どうしてトラブルは向かってくるのよ! マティアスの、マティアスの……バカアァァーッ‼
―ゴォンっ。
周囲に骨と骨が衝突し合う、鈍い音が鳴り響いた。