第137話 小さな恋の歌
梅雨の気だるさを乗り越え、初夏を迎えようとした頃。
降り続いた雨をたっぷりと補給し、陽光を浴びた木々は青々として季節の移ろいを感じさせている。
フランツィスカの庭園の花壇の前で、メイドの少女と土だらけになったサロペットの少年は楽しそうに笑い声を響かせていた。
花壇の花々はカラフルに色づき、その中でも黄色の花芯(おしべやめしべの部分)が可愛らしい『ある花』は、色とりどりに美しく咲き誇っている。
アッシュグレイの髪を風でそよがせたメイドの少女は、花壇に咲いたその花を興味津々に覗き込みながら、少年に問いかけた。
「これがマーお嬢様と同じ名前の花なの?」
「そうだよ、ターニャ。この花の名前が『マーガレット』っていうんだ。あ、なんかお嬢様を呼び捨てにしてるみたいで恐れ多いね。きっとお嬢様のお名前の由来になった花なんじゃないかな」
大好きなターニャと二人きりで話せて、どぎまぎしながらも目一杯明るく答えているのは、庭師見習いのビルだ。
日に焼けた肌に鼻のそばかすが、十四歳の年頃の少年らしいやんちゃさを引き立てている。
ターニャはマーガレットの花に夢中で、鼻の下を伸ばしデレデレになって笑うビルの様子など気にもしていない。
「わあー、いろんな色があるお花なんだね。ピンクに白に、黄色にオレンジ。どれもとっても可愛い」
「ねえ、そうだねー。でもそんなこと言うターニャがいっちばん可愛い」
ターニャと二人きりで話せることが嬉し過ぎて有頂天になったビルは、つい心の声を口にしてしまい、口元を押さえる。
「え? ビル、今あたしのこと呼ばなかった。なーに?」
微かに聞こえた自分の名前に反応したターニャは、ビルを見上げて覗き込む。
ビルはというと、そばかすのある鼻を掻きながら笑って誤魔化した。
「あは、あはは。何でもないよ……そうだ、お嬢様にマーガレットの花束をプレゼントしてみたらどうかな?」
「わ、それいい! マーお嬢様もとっても喜ぶね」
「ねー、じゃあ包むからちょっと待ってて」
「うん、わかった」
★
「えへへ。マーお嬢様、花束喜んでくれるかな」
ターニャはマーガレットにプレゼントしたところを想像して、花壇の前でひとり笑顔を浮かべている。
すると、ビルが右手にマーガレットの花束を持って戻ってきた。不思議なことに、ビルは左手を背後に隠していて、その左手にはもうひとつ花束を携えていた。
「ターニャ、お待たせ。これがお嬢様の花束だよ」
「わあああっ、きれい」
ビルの作ったマーガレットの花束は、ビビットピンクと薄いピンク、それに白のグラデーションでまとめられている。
さらにそこに加わる黄色の花芯が良いアクセントになっていて、乙女心をくすぐる素晴らしい出来栄えだ。
その花束の可憐さに、ターニャは思わず目を奪われる。
ビルのセンスの良さにターニャが感心しているのに、残念ながらビルはそれどころではなかった。背中に隠したもうひとつの花束を握りしめ、ターニャに渡すタイミングを見計らっていたのだ。
手に掻いた汗をサロペットで拭いながら、ビルは自分に言い聞かせる。
ごく自然に、それとなく言おう。
そのほうがきっと……かっこいい。
ビルはまごつきながらも、勇気を振り絞って花束をターニャの眼前に差し出した。
「そ、それとこれ……ブーゲンビリアっていう花なんだけど、咲きすぎちゃってさ。切った余りでよかったら、ターニャがもらってくれたら嬉しいなー、なんて」
それは小粒の花が可愛らしい、赤一色のブーゲンビリアの花束だった。
ブーゲンビリアの花々が緊張したビルの手で震え、サラサラと音を立てて揺れるのも耳に心地良い。
思いもしなかったビルからの贈り物にターニャは目を丸くしつつ、そっと受け取る。
「これ、あたしにくれるの?」
「うん。よかったら、ターニャの家に飾ってね」
「ありがとう。わあ……お花のプレゼントって、初めてだからとっても嬉しい。ビル、本当にありがとう」
ターニャは花が綻ぶような満面の笑みを浮かべた。
―わああ。
マーガレットの花束よりも、ブーゲンビリアの花束よりも、ターニャの咲き誇った笑顔は何よりも尊く、ビルは時を忘れて、まるで恋する向日葵のようにターニャから目が離せなくなる。
そうしているうちに――
「あ。そろそろ行かないと、クレイグに怒られちゃう。ビル、またね」
「……うん、また~」
両手に花束を抱えたターニャが屋敷の中に入っても、時々窓から覗くターニャの姿を追っているビルは、絶賛ターニャに首ったけ中である。
ターニャに花を贈ったという充実感に胸躍らせ、ビルは庭園の中でひとりでガッツポーズをした。
「ターニャの初めての花束プレゼント、ゲットだぜぇぇーっ‼」
大声に気付いた家宰のジョージに、その後こってりと絞られたビルであった。
★☆★☆★
マーガレットの私室にて。
マーガレットはティーカップに口を付け、紅茶に映る困り顔の自分と睨めっこしていた。
部屋にクレイグと二人きり……。
今までだって頻繁にあったことなのに、こんなに緊張してしまうなんて。
それもこれも、この前の夜のクレイグとのキキキ、キスのせいだわ。
あの夜以降、クレイグのことを妙に意識してしまうようになったマーガレットは、掻き乱される心にすっかり困り果てているのである。
クレイグと二人だった時って、どんな話をしていたんだっけ。
ううう、まったく思い出せない。
ターニャ、早く戻ってきて……。
と、マーガレットはターニャの帰還を切に願うばかりである。
すると、
「お嬢様、紅茶のおかわりはいかがですか?」
「あ、ええ。いただくわ……ありがとう」
どこか落ち着かないマーガレットと比べ、澄ました顔で紅茶を注ぐクレイグは、普段通りに従者の仕事を卒なくこなしている。
あの夜のキスのことも、クレイグはもう忘れてしまったのかしら。
あの日のキスが無かったことにされているみたいで、何だかさみしい……って、私ったら何考えてるのっ。
クレイグと私は恋人同士でも何でもないのだから、主と従者として何事もなかったように過ごすのが正解のはずで……。
項垂れたマーガレットの姿を横目で追いながら、クレイグはすこぶる悩んでいた。
あの日の出来事から、僕といる時のマーガレットお嬢様の様子がどうにもおかしい。
紅茶のおかわりを聞いた時だって、ふと目が合った時だって、すぐさま目を逸らして顔を背けられるのである。
ターニャには普通に接しているし、自分だけ避けられているような気がしてならない。
その理由が思い当たらないわけではない。
原因があの夜のキスであることは、澄んだ紅茶の色よりも明白だ。
そしてそのキスの原因も、もともと僕が嫉妬にかまけてお嬢様にキスしたいと迫ったことで起きた事故だった。
つまり、ほとんど僕が招いた種なのだ。
今は従者として平常心を装って、顔には出さないように仕事をこなしてはいる。
しかしお嬢様に避けられるたびに、僕の心は焼けるような痛みを受け、すでに瀕死の状態だった。
簡単に言うと――お嬢様と話せなくて淋しくて、もう限界寸前なのである。
淋しいって、まさか僕がこんなことを思うなんて。
たとえ天と地がひっくり返っても、誰かを恋しく思う気持ちなど、僕には無縁だと信じていたのに。
ターニャ、早く帰ってきてくれ。
これ以上、お嬢様に避けられたくない。
考えはそれぞれだが、マーガレットもクレイグもターニャの帰りを待ち望んでいることは完全に一致していた。
そしてそんな悩める二人のもとに、待ち焦がれた人物が花束を携えてついに戻ってきた。