第136話 朔月夜
マーガレットの部屋から出て、数歩歩みを進めたクレイグは急に立ち止まると、穴があくのではないかという猛烈な勢いで廊下の壁に頭をぶつけた。
クレイグは頭の痛みを気に留めることなく、涅色の髪を壁に擦りつけ、自らの行いを戒める。
ああ、やってしまった。
腹心の従者らしく真摯にキスを断ったのに、あの王太子の悪行を聞いた瞬間、腹が立ってつい対抗してしまった。
事故とはいえ、お嬢様の、くちびるにキスしてしまうなんてっ。
……でも、お嬢様のくちびるはとても柔らかかったな。
お嬢様も真っ赤になって可愛かった。
あの顔は、お嬢様の言っていたドキドキきゅんきゅんしたってことなのだろうか。
だとしたら…………って、何考えてるんだ僕。
たとえ渇いた砂漠からオアシスを見つけるような確率で、お嬢様が僕を好いてくれていたとしても、そんなこと願っちゃいけないのに。
クレイグは高揚感と自戒を交互に繰り返しながら、自分の頭に着いた火を消すかの如く、頭を壁に擦りつけ悶えている。
―そうして数分後。
ようやく冷静さを取り戻したクレイグが廊下の角まで歩いていくと、そこには体操座りをして待ちくたびれたターニャがいた。
ターニャは欠伸をこしらえながら、ゆっくりと立ち上がる。
「ふぁ~あ。反省は終わった? マーお嬢様は?」
「……ターニャ、そこにいたのですか。お嬢様はお疲れになったみたいで、もうお休みになられましたよ」
「そっか。やりすぎちゃった、かな……
あれれぇ~? クレイグってば、反省してた割にちょっと機嫌良いね。もしかしてもしかすると、ドキドキきゅんきゅんした?」
就寝時刻も過ぎ、廊下の明かりは必要最低限しか灯っていないが、仄暗い明かりに照らされたクレイグの顔はまだ熱を帯びて紅潮していた。
確信を得たターニャは誇らしげに胸を張り、満面の笑みを輝かせる。
ターニャがクレイグの顔に宿る淡い感情を捉えたように、クレイグもまた、ターニャの得意げな表情にすぐに気が付いた。
何だ、このターニャの勝ち誇った顔は。
ターニャめ、
そんなに物事を知っているわけでもないはずなのに、どこか鋭いヤツ。
……あれ? そういえば、どうしてターニャは部屋を出たんだっけ?
クレイグはある可能性に気付くと、静かに足を止めた。
そして躊躇いがちに口を開いたクレイグは、恐る恐る問いかける。
「ターニャ…………ナイトガウンは見つかったんですか?」
「え、ナイトガウン? ガウンはテーブルの上に置いたよ」
「ターニャ……」
「にひひ」
こいつ、お嬢様と僕をわざと二人きりにしたのか。
僕がキスすることを見越して?
まさか僕がターニャの手の上で踊らされるとは……不覚っ。
でもまあ、たまには踊らされるのも悪くないかもしれない。
まだ感触の残るくちびるに、クレイグは無意識に触れる。
不思議と、マーガレットの熟れた林檎のように真っ赤っかになった顔が思い浮かんだ。
すると、ターニャのからかうような声が軽やかに響き渡る。
「あー、クレイグってばニヤけてるー」
「ふ、ターニャもすごくニヤけてますよ。さあ、タチアナさんが心配する前に早く帰りましょう。ほらほら」
「むぅ、クレイグを待ってたから遅くなったのに。もっとお話し聞かせてよ」
「何のことですか? じゃあ、僕は先に行きますので、ターニャは後でタチアナさんに一人で怒られてくださいね」
「え、母様に叱られるのはヤダ。待ってよクレイグ」
後ろから追いかけてくるターニャを確認しながら、今度ターニャの家に何か美味しいお菓子でも差し入れようと思うクレイグなのだった。
一方、マーガレットはというと、
寝台の上で芋虫のようにシーツにくるまって、熱気を帯びた身体で悶々と自問自答を繰り返していた。
お、落ち着くのよ私。
クレイグは私の従者で、六歳からず―――っと一緒にいる、私にとっては家族も同然の……そう、家族同然のはずなのっ。
なのに、なのにどうして私はこんなにドキドキしているの!?
油断すると聴こえてくる心臓の鼓動に、マーガレットは頭を悩ませる。
あの時、クレイグとキ、キキキスして……頭も身体も全身痺れたみたいに言うことを聞かなかった。
まさかこれって、まさかとは思うけど。私ってクレイグのこと…………!
クレイグのツンと澄ました顔を思い浮かべただけで、マーガレットの心臓は、まるでマーガレットの疑問に正解のファンファーレを鳴らすように小刻みに音を立てて高鳴り出した。
……ウソ。
私、クレイグのことを本当にす、好きなの? ……好き? ……きす!?
あー~もうっ。頭が混乱する。
え、ちょっと待って。
明日からどんな顔してクレイグと会えばいいのようっっっ。
だからダメッって言ったのにぃ~。
枕に顔を押し付け、マーガレットは窓の外を見つめる。
今宵は朔月。
夜空に月はないが、微かな光明の道すじとなる、そんな夜となった。
お読みいただきありがとうございます。
次は――
クレイグを意識してしまい、普段通りに話せないマーガレット。
そんな中、なぜかターニャが花束を持って部屋を訪れます。
その花束からクレイグの意外な気持ちが読み取れて……。
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