第135話 胸奥の蕾はやがて綻ぶ
ターニャはクレイグの顔を捉えると、まるで芝居の稽古でもしているような、大袈裟な声を放った。
「あー、マーお嬢様のナイトガウンを持ってくるのを忘れてた~……てへっ。あたし取ってくるね」
「ええ、わかったわ」
マーガレットが了承するよりも前に、ターニャは光の速さで扉の前へと移動してクレイグに『がんばれ』と目配せする。しかし、今のクレイグにはターニャを気にかける余裕もなかった。
―パタン。
軋んだ扉が閉まると、部屋は深い静寂に包まれる。
音のない部屋に異変を感じたマーガレットは、クレイグの髪を梳く手が止まっていることに気が付いた。
鏡越しに確認すると、クレイグはマーガレットの背後で俯いたまま、静かに佇んでいた。
え、クレイグ?
胸騒ぎを覚えたマーガレットは、クレイグを案じるように後ろを振り返る。
クレイグは真紅の瞳でどこか一点を見つめていた。
そのクレイグの表情からは感情を読み取ることはできず、寄せては返す波のように幾度となく何かの葛藤と戦っているようだった。
「クレイ、グ?」
呼びかけに反応したクレイグはマーガレットと目が合うと、照れたように目を伏せ、早口でボソボソと呟いた。
「……お嬢様、先ほどの僕の番はまだ有効でしょうか?」
「え、クレイグの番? 有効って……」
「ですからその、僕もお嬢様の頬にキ、キスしてもよろしいでしょうか?」
「え、えぇっ‼ ……急にどうしたの!?」
驚いたマーガレットの翡翠の瞳は大きく見開かれ、思わずこぼれた甲高い声が静寂した部屋に響き渡る。
いつも真面目なクレイグが、恥ずかしそうに「キスしていいか」と許可を求めている。
普段のクレイグと何か違う。
どこかソワソワしていて冷静じゃないっていうか……
まさか、さっきのアレのせい?
心のざわめきから目を逸らすように、マーガレットは椅子から立ち上がるとクレイグを見上げた。
「もしかして、さっきターニャとからかったことを気にしているの? さっきは『ケチ』なんて言って茶化してしまってごめんなさい。あれは冗談だから、無理して私とキスしなくていいのよ」
するとクレイグは勢いよく足を踏み出し、マーガレットに迫るように詰め寄った。
「マーガレットお嬢様ッッ!!!」
「ひゃいっ!?」
部屋に響くほどの大声で名を呼ばれ、力強く肩を抱かれたマーガレットはビクリと身体を震わせ、クレイグを見据えた。
―え、どうしてそんな目で私を見つめるの?
マーガレットは我が目を疑った。
クレイグの真紅の瞳はとろけ、今まで見せたことのない甘えた表情と潤みを帯びた眼差しをマーガレットに注いでいた。
少し照れたように頬を染めたクレイグは、艶のある声で囁く。
「先ほどはターニャの言ったとおり、恥ずかしくてあんな態度を取ってしまいましたが………………もし叶うのなら、どうか僕に、お嬢様の頬にくちづけする許可をくださいませんか?」
「…………ううん、ダメ」
「えっ!?」
きっと笑顔で許可してくれると、返事はイエスだと信じていたクレイグは耳を疑った。
断固拒否したマーガレットは肩に置かれたクレイグの手をするりと払いのけ、距離を取るように離れたテーブルへと小走りで移動する。
普段と変わらないよう振る舞っているマーガレットだが、内心は嵐に呑まれた船のようにグラグラと揺れ動き、非常に混乱していた。
クレイグの熱を帯びた瞳に見つめられた時、秘かに感じた胸の高鳴りと、全身が沸きだってざわめくような感覚。
その感覚に気付いた時、クレイグとキスしてはいけない。
キスしてしまったら何かが大きく変わってしまうと、マーガレットの胸の奥の何かが告げたのである。
これって…………いいえ、まさか。
急に拒絶して、クレイグを傷付けたかしら。ごめんなさい。
ここからは普段のマーガレットとして、クレイグに接しないと。
するとマーガレットは、テーブルの上に置かれていた見覚えのある物に気付き、つい顔を綻ばせる。
「あ、私のナイトガウン。ここにあるんじゃない。ターニャったらそそっかしいんだか、ら」
瞬間――頬を緩ませたマーガレットの眼前に、クレイグの真紅の瞳が現れる。
拒否された事実を受け入れられないクレイグは、甘え足りない幼子のような悲痛な表情を浮かべ、マーガレットの手を強く握り締めた。
「逃げないでください」
「だ、ダメっ」
焦ったマーガレットはクレイグの手から逃れようと、一歩一歩と後ずさる。
しかし、しっかりと握られたクレイグの手から、逃れることは叶わない。
詰め寄るクレイグにマーガレットはジリジリと後退するしかなく、ついには寝台まで追い詰められ、マーガレットは逃走経路を塞がれてしまった。
クレイグは悲痛に満ちた声で訴える。
「どうして逃げるんですか!?」
「どうしてって……クレイグが追いかけてくるからよ。ねえクレイグ、ちょっと落ち着きましょう?」
「僕は落ち着いています。ですからお盛んな王太子殿下と違って首すじや耳にキスしたり、はむはむしたりしません。ただ一度だけ、頬にキスするだけですから!」
「お盛ん!? キス? はむはむって……なんて破廉恥なこと言ってるのよー!」
「え、すべてお嬢様が話したことなのですが」
クレイグの指摘に、マーガレットも自分が何を口走っているのかわからなくなり、マーガレットの顔は火が着いたようにみるみる紅潮していく。
「と、とにかく! まずは話し合いましょう。話せばきっとわかり合えるわ、ね?」
「……でしたら、先ほどはキスしてみようと自分から言ったのに、どうしていきなりダメになったのか、教えてください」
「な、なななっ!? キスしてみようなんて言ってないし、私はそんなお盛んじゃないものっ」
「キスしない僕をケチ呼ばわりしたじゃないですか! 嘘を吐くのなら交渉は決裂ということで」
「えっ、ちがっ……えっと、ダメって言ったのは…………勘?」
「勘って、何ですかそれ?」
「もうっ、女の勘ってヤツよ! あなたとはダメって何かが言うの。お願いだから許してっ!」
クレイグの手から逃れる一心で、思考を置き去りにしたマーガレットは、腕を荒々しく振り回した。
しかし勢い余って寝台のシーツに足を取られ、マーガレットはバランスを崩して寝台に倒れ込む。
「きゃっ」
「危ないっ‼」
反射的に伸ばしたクレイグの腕はマーガレットの腰を支え、クレイグはただ必死にマーガレットを抱き寄せ、
――二人はそのまま、寝台に倒れ込む。
くちびるにあたる柔らかな感触。
芳しいローズの甘い香り。
何だろう。
僕はこの香りを知っている気がする。
ん、あれ?
我に返ったクレイグが目を開けると、そこには煌めく翡翠色の海が広がっていた。それがマーガレットの瞳だと気付いたクレイグは、くちびるの柔らかな感触の意味を理解する。
―お嬢様のくちびる!?
顔を上げたクレイグが目にしたのは、翡翠の瞳を潤ませ、頬だけでなく耳まで真っ赤に染めて、赤毛も含めて真っ赤っかになったマーガレットだった。
はだけた寝間着の胸元から覗く陶器のように透き通った白い肌、眩むような甘い香り、触れ合う肌から伝わってくる柔らかな感触と温もり、そして囁くような吐息。
マーガレットを彩るすべてが、クレイグの視覚、嗅覚、触覚、聴覚を魅了していく。
「し、失礼しましたお嬢様っ」
クレイグが謝罪の言葉をどうにか絞り出して寝台から飛び上がると、マーガレットはすぐさまシーツを頭まで被って早口で伝えた。
「も、もももう寝るからお、おやすみなさいっっっ」
クレイグは自分がどんな言葉を口にして、マーガレットの部屋をあとにしたのか覚えていない。
しかしくちびるに残る柔らかな感触は、胸の高鳴りとともに、クレイグの心に深く刻まれていた。