第134話 ドキドキきゅんきゅん
「ドキドキきゅんきゅんか~。あたしはいつもマーお嬢様にドキドキきゅんきゅんしてるよ。ねぇ、マーお嬢様。あたしがお嬢様にキスしたら、ドキドキするのか試してみてもいーい?」
灰色の瞳に星の煌めきを輝かせたターニャは、好奇心を抑えきれず、マーガレットに唐突にくちづけを願い出た。
不意を突いたターニャの願いに、マーガレットは口元にそっと笑みを忍ばせる。
「なるほど、それ面白そうね……やってみましょうか」
「わーい、やったー」
眉間に深いシワを刻んだクレイグは、マーガレットの髪をタオルで優しく乾かしながら、二人の会話に耳を澄ませていた。
二人の会話は瞬く間に進み、キスする部位について話し合っている。
話し合いの結果、無難に頬にキスするということで話がまとまったようだ。
ターニャは近くの椅子をいそいそと運び、マーガレットの隣に並ぶように椅子を置いて腰を下ろした。
少々緊張した面持ちのターニャは、息を整えると静かに告げる。
「よし、じゃあ~キスするね」
「ええ、いつでもどうぞ」
瞼を閉じたターニャはマーガレットの肩に手を置いて、ゆっくりゆっくりと桜色のくちびるをマーガレットの左頬に寄せていく。
その様子を、クレイグは固唾を飲んで見守っていた。
マーガレットお嬢様とターニャの少女同士のキスは、春を待ち焦がれて今か今かと咲こうとする蕾のような、淡いときめきが漂っている。
風呂上がりのマーガレットのやや紅潮した左頬に、ターニャの小さなくちびるがゆっくりと触れる。
クレイグの位置からだとマーガレットの髪に隠れてはっきりと見えなかったが、ドレッサーの鏡を通して、クレイグはしっかりと目に焼き付けた。
―ああ、羨ましい……僕も。
「ふふふ、ターニャにキスされるなんて、ちょっとくすぐったいわね。うーん、ドキドキはしなかったけど、心がほっこりして今日一日の疲れが吹っ飛んだかも。ありがとうターニャ」
「あたしも! 母様にキスした時みたいな優しい気持ちになったかも」
マーガレットの声で我に返ったクレイグは、心に生まれた身勝手な欲望を掻き消すように首を横に振る。
笑い合っているマーガレットとターニャを眺めながら、クレイグはひとり静かに反省した。
ああ、僕はまた……何て大それたことを考えているんだ。
たかが従者の僕がお嬢様にキスしたいだなんて、身の程知らずにも程がある。
しかしその反省も、ターニャのひと言でぶち壊される。
「じゃあ、次はクレイグの番だね!」
「………………はぁっ!?」
ターニャの言葉にクレイグは耳を疑い、普段の冷静沈着さからは程遠い素っ頓狂な声を上げた。
今、ターニャは何と言った?
次はクレイグの番、番って何だっけ?
ターニャは僕に一体何を……。
クレイグの混乱をよそに、ターニャの言葉をしっかりと理解したマーガレットは、悪意を知らない子供のような無垢な表情でクレイグを見つめる。
「クレイグもキスしてくれるの? わあ、今日はいろんな人とキスする日ね。もしかして、クレイグならドキドキきゅんきゅんするかしら」
「……ぼ、僕はキスしませんっ」
「え、いいじゃない。キスしましょうよー」
するとターニャも応戦する。
「そうだよ、クレイグのケチぃ~」
「「そうだそうだ。ケチケチー」」
いつの間にか二人から『ケチ』という解せない称号を贈られたクレイグは、『ケチ』の言葉の雨あられをその身に受けながら冷静に考える。
キスを拒否したらケチになるのか?
いや、そんなわけない。
そもそも、
そう簡単に何人もの人間にキスを許すだなんて、お嬢様はどうしたんだ!?
もしかして昼間の件で、まだ自暴自棄になっている?
ここは従者の僕が、お嬢様が後々後悔することのないようにフォローしてさしあげなければ。
髪を乾かす手を止めたクレイグは咳ばらいをしてから、鏡に映るマーガレットとターニャに目を向ける。
「コホンッ……先程のターニャとのキスは百歩譲って良しとしましょう。ですが僕は男です。ターニャと違ってそういう戯れで気安くされては、お嬢様の名に傷が付きます」
何か言いたげなターニャは、ニヤニヤと薄ら笑いを浮かべる。
「そんなこと言って、マーお嬢様とキスするのが恥ずかしいだけでしょ。さっきからたまにお嬢様の顔をチラチラ見てるのわかってるんだからねー。本当はお嬢様にキスしたくってたまらないクセにー」
クレイグの胸中を見透かしたようなターニャの挑発的な言葉に、マーガレットは目を丸くして驚きの声を上げる。
「ええっ、そうなの!?」
「ちっ違いますっ。お嬢様、ターニャが言うことを真に受けないでください!」
ターニャがああ言えば、反応したマーガレットがこう言う。
二人に挟まれて翻弄されっぱなしのクレイグは、大きく深呼吸した。
そしてクレイグしか知らない、ある真実に秘かに思いを馳せる。
八歳の頃、僕は眠っているマーガレットお嬢様の額にキスしたことがある。
僕しか知らない秘密。
その時のことは、今でも鮮明に思い出せるほど僕の記憶に刻まれている。
お嬢様の人形のように美しい寝顔、額の感触、引きつけられる甘い香り、拭きかかる吐息。
どれもすべて僕しか知らないお嬢様の姿だ。
そういえば、お嬢様はファーストキスはまだなんだな。
もしかしたらどこかでアヴェル殿下と……と思っていたけど、そ、そうか。
「顔を赤くして、どうしたのクレイグ?」
「な、何でもありません。とにかく僕はキスはしませんから……髪は乾きましたね。次は髪を梳きますので前を向いていてください」
「はーい」
返事をして前を向いたマーガレットの横には、こちらに物言いたげな視線を送っているターニャがいた。
その刺さるような視線に気付いたが、クレイグは何も気付いていないような素振りでブラシを手に取った。
クレイグはマーガレットの髪を梳く時間が好きだった。
燃えるような赤いルビー色が美しいマーガレットの髪。
少しばかりクセのある髪をマーガレットは嫌っているようだが、綿のようにふんわりとした柔らかな髪をクレイグは好ましく思っており、この髪を梳くひとときはクレイグにとって、秘かな楽しみの時間となっていた。
しかしクレイグの癒しの時間に、鋭いナイフのようなターニャのひと言が突き刺さる。
「ねえ、お嬢様。ゼファー殿下にどんな感じでキスされたの?」
ターニャの問いかけに、マーガレットは一瞬戸惑った顔を覗かせた。
マーガレットは振り返ることなく背後のクレイグを気に掛けると、ターニャにだけ聞こえるように声を落として囁く。
「んー……まず頬にして、首すじはゆっくり何回も、最後に耳にフーってしてから……耳をはむはむっと嚙まれたような」
「えぇ!? はむはむ?」
ターニャの驚きの声と同時に、クレイグの髪を梳く手も静かに止まった。
マーガレットはクレイグの耳に届かないようにと声を潜めたのだが、そのひそやかな言葉は、意に反してクレイグの耳に鮮明に響いてしまったらしい。
昼間、翡翠宮の庭園で他の使用人と同じく後ろに控えたクレイグには、二人の細かい行為までは視認できなかった。
随分長いとは思ったが……だからあんなに首すじや耳を拭いていたのか。
マーガレットの話から昼間の真実が見えてくる。
いつの間にか、一度収まったはずのあの衝動がぐるぐると渦を巻き、クレイグの嫉妬という杯を満たし始めた。