第133話 暴走侍女と禁断の聖域
マーガレットの私室のバスルームにて。
バスタブに注がれた湯には薔薇の花びらが浮かび、湯気とともに香る薔薇の芳香が優雅なひと時を演出している。
しかし、
―バシャバシャバシャ。
バスタブに浸かっている一糸纏わぬ姿のマーガレットは、右半身をこれでもかと入念に洗っていた。
主の異常で周到な湯あみに、侍女のターニャは何かを感じ取った。
「マーお嬢様。今日はいつもよりたくさん右側を洗っているけど、どうしたの?」
「んー……たいしたことじゃないのだけど、ゼファー様にキスされたから、どうも頬とか首すじとか耳とかに違和感があって」
「へぇ…………え゛、首すじ!? 耳ぃ゛ッ!?」
バスルームには、ターニャの甲高い素っ頓狂な声がエコーがかかったように反響した。
禁断の聖域(マーガレットが使用中のバスルーム)に入室することのできない従者クレイグは、マーガレットの髪を乾かすタオルをひとり淋しく準備していた。
すると、
―バタンッッ‼
禁断の聖域の扉を慌ただしく開け、目を血走らせたターニャはクレイグを見つけるや否や、ズカズカとクレイグへと歩み寄って、クレイグのシャツの襟を掴んで振り回す。
「お嬢様が交換条件にキスしたって! なんかちょっとやらしいところにキスされてるし‼ どうして教えてくれなかったの!!?」
「ゴホッ……やらしいところ? え? ちょ、そんなに振り回さないでください。ターニャに教えたら、今のように怒り狂うのはわかっていましたから言いませんでした。それにあとで知ったところで、どうにもならないことですし」
「どうにもならないとは限らないでしょ! マーお嬢様悲しそうだし……。
そうだ、お城に行こう。今からあの王太子を殴りに行こう、そうしよう‼」
すっかりヨレヨレになったクレイグのシャツの襟を離したターニャは、廊下へと続く扉へと疾走しようと助走をつける。
しかし、察したクレイグがターニャを背後から羽交い絞めにして捕まえた。
「ターニャ、落ち着いてくださいっ! 気持ちはわかります。でも、そんなことしたらお嬢様の傍にいられなくなるんですよ。だから僕も……耐えたんです」
両腕をがっちりとクレイグに羽交い絞めにされ、ターニャの上半身は身動きがとれない。だが、ターニャの足は止まらなかった。床を踏みしめるように足を動かし、一歩一歩と、クレイグを引き摺ってゆっくりと前に進んでいく。
「止めないでクレイグ。マーお嬢様の気持ちも考えないで、まるで物みたいに扱って。あの王太子、殴ってやらなきゃ気がすまないよ。マーお嬢様の傍にはいたいけど、あとのことは任せたからね」
「ちょっと、勝手に僕に任せないでください。僕ではできないことだってあるんですから。着替えの手伝いとか、お風呂とか……」
するとターニャは親指をぐっと上げて、エールを送る。
「大丈夫、クレイグならやれるよ」
「はぁっ!?」
—バタンッ‼
その時、禁断の聖域もといバスルームの扉がまたも荒々しく開いた。
そこには飛び出していったターニャを止めようと、バスタオル一枚巻いたマーガレットの姿があった。
その姿に誰よりも驚いたのは、禁断の聖域に決して踏み入ることのできないクレイグだ。
折れそうなほど細い腰回り、つい目が行く胸元と白い太腿。
普段のドレスとは違い、タオル一枚だとマーガレットの女性らしい肢体がしっかりと伝わり、クレイグの真紅の瞳は釘付けになる。
どうにか緊急事態を収拾したいマーガレットは、クレイグの視線には気付かずターニャを止めることに必死だ。
「だ、大丈夫よターニャ。私はこのとおり平気だし、すぐにクレイグが対処してくれたから何も問題ないわ、ぜぇぜぇ」
「対処したって……クレイグだってお嬢様の心の傷までは癒せないんだよ」
「あの執着の強いゼファー様と婚約している以上、いつかこういうことがあるとは覚悟していたわ。心を殺して……耐えたの。
くちびるは死守して、私、頑張ったの。だから、ね……ターニャには私の愚痴を聞いてもらうために傍にいてほしいのよ。ターニャにしかできないことなの、お願い」
今もクレイグによって羽交い絞めにされているターニャだが、大好きなマーガレットに傍にいてと懇願されると、満更でもなさそうに口角を上げて、にへらと頬を緩ませた。
「うーん……マーお嬢様がそこまで言うんなら、ちょっと愚痴を聞いてみてもいいかも」
「本当? じゃあ、どこから話そうかしら」
安堵のあまり小走りで駆け寄ってくるマーガレットは、自分がバスタオル一枚であることを忘れていた。
マーガレットが走る度に揺れる胸、タオルがひらりと躍ると覗く太腿を自然と目で追ってしまったクレイグは、伏し目がちに咳払いをした。
「こほんっ。愚痴をこぼす前に、お嬢様は寝間着に着替えてください。お願いですから、早くっ!」
★☆★☆★
「私ね、くちびるは守ったのよ。私のファーストキスは守った……そういえば、ゼファー様からのキスで、『ドキドキきゅんきゅん』したことないけど、好きな人だったら『ドキドキきゅんきゅん』するのかしらね」
婚約者の愚痴をこぼしながら、クレイグの言い付けどおりに寝間着に着替えたマーガレットは、ドレッサーの椅子に腰を下ろして、鏡越しのクレイグとターニャに目を向ける。
合図を受けたクレイグはタオルを手に取ると、マーガレットの髪を丁寧に乾かし始めた。
王城に殴り込みに行かんばかりの勢いだったターニャは、マーガレットの話に耳を傾け、怒りを露にしている。
「やっぱりマーお嬢様にあんなヤツはふさわしくないよ。すぐにでも婚約破棄を突きつけるべき」
「本当に婚約破棄できたらいいのにね。あ、本人の前で『あんなヤツ』なんて言っちゃダメよ」
「そんな失敗はしないよ。あたしそんなに気が短くないもん」
先程まで血気盛んに王太子の襲撃を企てていたのが嘘のように、冷静になったターニャは腕を組んで思考を巡らせる。
「ドキドキきゅんきゅんか~。あたしはいつもマーお嬢様にドキドキきゅんきゅんしてるよ……ねぇ、マーお嬢様。あたしがお嬢様にキスしたらドキドキするのか試してみてもいーい?」
灰色の瞳に星の煌めきを輝かせたターニャは、好奇心を抑えきれず、唐突にマーガレットにくちづけを願い出た。