第131話 無自覚な好意
「さっきのゼファー様とのこと……クレイグも見ていたの?」
思わず口からこぼれたその言葉に、マーガレットは首を傾け、戸惑いの色を瞳に宿した。
あれ? 私、どうしてクレイグにゼファー様とのキスを見られたことを、こんなにも気にしてしまうのだろうか?
今までだって散々見られているはずのに……。
一瞬、クレイグの眉が鋭く引きつった。
クレイグはマーガレットの頬から手を放すと、感情を押し隠すように目を伏せ、噴水の音に掻き消えてしまいそうな沈んだ声を響かせる。
「……はい、見ていました。僕の位置からは、お嬢様に隠れてよくわかりませんでしたが……あの、それが何か?」
「そ、そうなんだ…………よかった」
よかったって、私、どうして安心しているの?
なぜだかクレイグには、首すじや耳にくちづけされたことを知られたくないと、そう思ってしまった。
なん、で……?
胸の奥に広がるざわめきを振り切るように、マーガレットはクレイグの持ってきた消毒液と布を手に取ると、荒々しく拭うのだった。
★
「うん、すっきりした!」
消毒液で頬や首すじを拭き終わったマーガレットが立ち上がろうと地面に手を付くと、クレイグは「ちょっと待ってください」と呼びかける。
クレイグは、手に持っていた香水でも入っていそうなガラスの小瓶の液体をハンカチに染みこませ、乾燥したマーガレットの頬に優しく塗布していく。
マーガレットは、まるで借りてきた猫のように大人しくして、クレイグにされるがままだ。
大きく息を吸い込んだマーガレットは、ふんわりと漂う香りを鼻腔でくすぐらせる。
「とてもいい香りね。なんだか気分がスッとするわ」
「知り合いの薬師が作った化粧水なんです。ハーブのタイムとペパーミントの香りに、ちょっとした殺菌作用もあるそうですよ。まんがいちのために持ち歩いていたのですが、使う日が来るなんて……あ、最後にリップクリームを塗りますね」
「まんがいちって…………ふぅ、でもありがとう」
マーガレットは瞼を下ろして、リップクリームを待っている。
瞳を閉じたマーガレットの姿は、まさにくちづけを待つ乙女のように可憐で美しい。閉じた瞼の下で強調される長い睫毛、惹き付けられてしまう魅惑的な形のくちびる。
その美しい顔にくちびるを寄せたいという熱い衝動に駆られたクレイグだったが、衝動を振り払うようにリップクリームを手に取った。
クレイグはクリームを指先に付けると、マーガレットのくちびるを労わるように優しく塗布していく。
指先から伝わるマーガレットのくちびるの柔らかさは、あの時のクレイグの暗い感情を思い出させた。
ゼファー殿下がくちづけを要求した時、本当はお嬢様の前に飛び出してゼファー殿下からお嬢様を引っぺがしてやりたかった。
でも、きっとそんなことをしたら、もうお嬢様の傍にいられなくなる。
だからあの時、僕は何もできなかった。
でも、そんなのはただの言い訳だ。
使用人たちと後ろに下がった僕の位置からは、お嬢様が何をされたのか、はっきりとは見えなかった。でも、お嬢様の様子からきっと何か酷いことをされたのは明白だ。
本当は何があったのか知りたいけど、お嬢様の涙を見たら訊くことも憚られてしまった。
だからって、お嬢様のその後のケアしかできないなんて……。
守ると言っておきながら、僕はなんて忠義に欠けた愚かな従者なんだろう。
悔しい……くやしい……くや、しい……。
「そんな顔しないで、クレイグ」
憂いを帯びたマーガレットの声に、クレイグはハッとし、目を見開く。
クレイグの眼前には、いつの間にか目を開け、透き通った翡翠の瞳でこちらを見上げているマーガレットがいた。
リップで潤ったくちびるを動かしながら、マーガレットはしんみりと伝える。
「あの時、怒らないで我慢してくれてありがとう」
「……お嬢様に言われていましたから。本当はすぐにでも飛び出して殿下の胸ぐらに掴みかかりたかったですが、ギリギリで耐えました」
「ふふ。その気持ちは嬉しいけど、絶対に掴みかかってはダメよ。ゼファー様はあなたのことは命の恩人と思っているから、普通よりも大目に見てくれている。
でもまんがいち、あなたが目を付けられていなくなってしまったら……きっともう、私は立ち直れない」
クレイグの服の裾を掴んだマーガレットは、心許なげにクレイグを見つめている。裾を引く微かな震えからマーガレットの不安を読み解ったクレイグは、息を漏らし、忌まわしいあの人物を脳裏に浮かべた。
「目を付けるといっても、ゼファー殿下は従者を同じ人間とは思っていないようです。フェデリコ様と二人きりでないとの証明も、従者のことは無いものとして扱っていましたし」
「……そうなのよねぇ。本当に困っちゃう、はあーあ。何だかとっても疲れたし、さっさと屋敷に戻りましょうか」
「はい」
その時、庭園で行方をくらましたマーガレットを探していた護衛騎士がやってきた。マーガレットたちは、何事もなかったように合流し、そのまま足早に城をあとにしたのだった。
★☆★☆★
翡翠宮の廊下にて。
ゼファーを先頭に、大きな集団がぞろぞろと書斎室へと向かっていく。
ゼファーの少し後ろを歩くミュシャは、ごく自然にゼファーに話しかけた。
「ゼファー様。あれはいくらなんでもやりすぎだったのでは? 急にくちづけなんて、マーガレット様も驚いて泣いてしまいかねません」
「……マーガレットは私の婚約者なのだから、他の男に近づく必要はないだろう。それをマーガレットにもわかってもらう必要があったんだ。そもそも幾何のカータム教授に教えを乞うべきなのに……あるいは私に聞いたのなら、手とり足とり教えてあげるのにまったく」
フィリオ家の降爵の取り消しには同意したものの、ゼファーの怒りは未だに収まらないでいた。
そんなゼファーに物言いできるのは、この集団の中で昔なじみのミュシャをおいていないだろう。ミュシャ以外の側近たちは、ただ無言で二人の会話に耳を傾けている。
ゼファーの溜め息を確認したミュシャは、自分の口元に手を置いて意味ありげに声を潜める。
「先ほど、この件について追加の調査報告が届きました。幾何担当のカータム教授は男尊女卑の思想をお持ちのようで、優秀な女性を毛嫌いしていたようです。
教授が過去に受け持った女生徒たちの話だと、教授の偏見がひどく、指南してもらえないことのほうが多かったとか」
「なん、だと?」
突然の衝撃に足を止めたゼファーは、身を翻してミュシャを凝視した。
周囲の側近たちも、ゼファーに倣うように足を止め、ミュシャに視線を送っている。
当のミュシャは、いつものように目を細めて狐のような笑みを浮かべ、静かに言葉を紡いでいく。
「……このことを踏まえて、再度マーガレット様の護衛にあたっていた騎士に話を聞いたところ、優秀なマーガレット様にもわざと難しい問題を出して、解けないと辛くあたっていたという報告があります。
おそらく、それこそがマーガレット様が他の方に幾何を教えてもらおうと思われた原因なのでは?」
「カータム教授が女性差別だと? 私には良い先生だったからすっかり油断していた。よくも私の可愛いマーガレットに……すぐに幾何の教師を代えるように手配してくれ。できれば女性の教師を探せ。
それと……カータム教、いやカータムは数学教育研究所の所長だったか。すぐに女性蔑視の件で解雇して、二度と王城に上がれないようにしろ」
「はい、仰せのままに」
書斎室の扉前に到着したゼファーはドアノブに手をかけたところで、ふとあることが気になり、ミュシャを睨みつける。
「ところでミュシャ。君は随分とマーガレットに理解があるようじゃないか。まさかとは思うが……」