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第130話 くちづけ

 ゼファーの愉悦に満ちた視線は、まるで獲物を愛でる獣のように凍りついたマーガレットに注がれている。

 指先の微かな震えを抑えながら、マーガレットは思考を巡らせていた。


 くちびるですって?

 今までくちびるになんて一度も…………。

 そういえば、ゼファー様がくちびるにキスしてきたことは一度もない。

 いつも頬や額、頭で……。

 

 くちびるに、キス。

 待って、これ……私のファーストキスになってしまうんじゃ!?


 前世の私はキスのひとつやふたつ、しているのかしら?


 …………………………ダメだわ、まったく記憶にない。


 そうだ、仔猫のにゃんコフとならキスしたことがある!

 だからこれはファーストキスじゃない。大丈夫、大丈夫……だい、じょうぶ。


 だから……こ、こんなことで、うろたえちゃダメ。

 しっかりするのよ、マーガレット。

 予定とは少し変わってしまったけど、頬にキスするつもりがくちびるに変わってしまっただけだし。問題ない……し。


 本日何度目かの決死の覚悟を決めたマーガレットは、蟻の前進ほどのゆっくりとした速さでゼファーの顔へと近づき、コイン一枚分の触れるか触れないかの距離まで接近する。


 私のファーストキス……こんな形で失うなんて……。


 その瞬間。

 マーガレットの瞼に、クレイグの不安げな顔がよぎった。


 クレイグ……。

 私、このままゼファー様と本当にくちづけするの?

 わ、私は…………。


 気が付くとマーガレットは、ゼファーの顔からスッと距離を取っていた。


 あ~、やっぱり無理っ!

 ゼファー様に自分から、それもくちびるにキスなんて無理よぉっっ!

 でも、どうやってこの状況を乗り切ればいいの?


 ゼファーはというと、受け入れ態勢万全から寸止めをくらってしまい、顔をしかめてこちらを睨んでいる。

 ゼファーから漏れでる嵐のような激情に気付いたマーガレットは、悪役令嬢とは思えぬほど愛らしい笑顔を浮かべて、パチパチと瞳を瞬かせながらゼファーに告げた。


「あの、くちびるのキスは、ゼファー様との大切な結婚式に取っておいてはいけないですか? 初めてのキスは大切な人と大切な日に……それが私の子供の頃からの夢なのです」


 ゼファーは眉間にシワを寄せ、冷ややかな視線でマーガレットを静かに見据える。



 静かな静寂が庭園を包み込む。



 すると、ゼファーは突然息を吹き返したように、感嘆の声を漏らす。


「ああっ、マーガレットっ! 僕との結婚式をそんなに大事に思っていたのかい……ふふ…………ふっ……それはならば、君のくちびるは大切にとっておかないといけないな」

「わ、わかっていただけましたか。ゼファー様」


 どうにかこのピンチを脱したことに安堵し、マーガレットが気を緩めた瞬間。


 「でも、マーキングはしておかないと」


 ゼファーは掴んでいたマーガレットの右手首を引き寄せると、マーガレットの右頬に間髪入れずにくちづけをする。


 しかし、それでは終わらない。


 ゼファーのくちびるは、今度はマーガレットの右の首すじに狙いを定めた。

 そして首すじに一回、二回、三回、四回、五回とくちびるを押し付けていく。


 さらに最後に耳にフッと息を吹きかけたあと、マーガレットの耳にチリッと痛みが走った。

 ゼファーは身体を起こすと指先で前髪を掻き上げ、満足そうに微笑んだ。


「ふぅ……くちびる以外なら問題ないよね。あれ、恥ずかしくて固まってしまったかな。そんなところも可愛い。マーガレットの望みどおり、例の降爵の件は間違いだったと訂正しておこう」

「あり、がとう……ございます」


 下を向き、俯いたまま礼を述べたマーガレットの翡翠の瞳は涙で滲み、くちびるは震えが止まらない。


 もちろん、マーガレットは恥ずかしくて震えているわけではなかった。

 食い込んだ爪で血が出るほど拳を握り締めたマーガレットは、涙ぐみ、耐えていただけだ。


 くちびるは避けられた。

 でもこの悔しい気持ちは何だろう……。


 すぐにでもゼファーに頭突きをお見舞いして、この状況を終わらせたかったが、フィリオ侯爵家のためにマーガレットは堪えた。

 そしてこれ以上、隙を見せないために、マーガレットはすぐさまゼファーの膝の上から滑るように立ち上がる。


 すると――



「ゼファー殿下。お楽しみのところ大変申し訳ないのですが、教会との面会のお時間ですわ」


 使用人たちとともに控えていたゼファーの側近ミュシャが、次の公務の催促へとやってきた。

 何となく状況を察したミュシャは、放心状態のマーガレットに含みのある会釈をする。


 ゼファーは紅茶を飲み干すとくちびるをぺろりと舐め、すっかり上機嫌だ。


「ああ、もうそんな時間か。楽しい時間はあっという間に過ぎるものだね。僕は公務に戻るが、君はゆっくりしていってくれ」

「……はい、お言葉に甘えさせていただきます」


 蚊が飛んでいるような、か細い声で答えたマーガレットは、どうにかゼファーを見送った。



 ★☆★☆★



「庭園を散策してくる」と言って飛び出したマーガレットは、護衛騎士やメイドの目を逃れ、庭園の一番奥の薔薇の生け垣に囲まれた噴水へとやってきた。

 昔はよくこの場所で、シャルロッテと遊んだものだ。


 しかし今のマーガレットに昔を懐かしんでいる余裕などなく、崩れ落ちるように噴水に向かうと、噴水の水を(すく)って頬や首すじ、耳にかけて洗い流していく。


「信じられない、信じられない」


 緊張の糸が切れたマーガレットの瞳からは、ついに涙がこぼれ落ちた。

 この涙は悲しみではなく、怒りと悔しさからくる涙。


 頬にキスされるのはもう慣れた。

 でも首すじや耳は……。


 幼い子供のように地団駄を踏んでしまいそうなほど怒りを蓄積したマーガレットは、ゼファーへの負の感情を掻き消すように、ゼファーの触れた部分を削れるのではないかというほど力任せに拭っていく。

 ゼファーから贈られたドレスが濡れてしまってもお構いなしだ。



 ―ガサガサゴソッ。

 薔薇の生け垣が激しく揺れると、ある人物が顔を出した。


「ああ、お嬢様。それはいけません」

「ゴシゴシ拭いてドレスも濡らして、お行儀が悪いっていうんでしょう。でも止めないでちょうだい、クレイグ」


 生け垣から現れたのは、何やら道具を抱えたクレイグだった。

 クレイグは首を横に振ると、真剣な眼差しで言い放つ。


「いえ、それではきれいに落ちません」

「……え?」


 クレイグは手に抱えていた道具の中から、茶色の小瓶をマーガレットへと差し出した。

 マーガレットは意図が読み取れずに首を傾げる。


「これは何?」

「こちらは消毒液です……いえその前に、ちょっと失礼しますね」


 断りを入れたクレイグは、赤く腫れたマーガレットの目尻に溜まった涙を、指先でそっと拭う。

 マーガレットの頬にクレイグの温もりが伝わり、途端にマーガレットの涙はぴたりと止まった。

 

 クレイグの真紅の瞳に吸い寄せられるように、マーガレットはクレイグをただ静かに見つめていた。





お読みいただきありがとうございます。

ゼファー様が何をするのかわからないので、一応【R-15】を設定しました。



キスの部位にはそれぞれ意味があって、

頬は『親愛』、首すじは『執着』、耳は『性的、誘惑』などを意味します。


ゼファー様が一番キスしたのは……。

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