第127話 負け戦
ローゼンブルク城。
翡翠宮へと続く廊下を、一人の従者を引き連れ、カツカツとヒールの音を立てて足早に進む令嬢がいた。
ヒールの急くような音から、近くを通りかかった者たちは何事かと様子を窺う。
しかしその令嬢がマーガレット・フランツィスカ侯爵令嬢だと気付いた者は、近くの者にコソコソと耳打ちしている。
ローゼンブルク城は、現在、何の前触れもなく言い渡されたフィリオ侯爵の降爵のウワサで持ち切りだった。
そのウワサの内容というのが、ゼファー王太子殿下が婚約者のマーガレット嬢とフィリオ卿の親密な関係に嫉妬し、怒りの鉄槌を振り下ろしたという信じ難いものだったのである。
その渦中の人物であるマーガレットが、ゼファーのいる翡翠宮へと凄んだ様子で向かっているのだから、ゴシップ好きの者たちは――
「フェデリコ・フィリオ卿とのウワサは本当だった!」
「もしや、婚約破棄?」
「いいえ、弁解に行くのかも」
と、これから何が起こるのかと色めき立っている。
そんなウワサ話など耳にも入らないマーガレットは、気迫のこもった表情とは裏腹に、手は小刻みに震え、眩暈を感じるほどの不安を抱えながら目的地を目指していた。
私はこれから、とても無謀なことをしようとしている。
私のような何の権力も持ち合わせていない小娘が、婚約者とはいえ、この国の王太子に物申そうとしているのだ。
しかもその王太子は、幻滅するほど嫉妬深い。
物申せば、絶対に見当外れの勘繰りを入れてくること間違いない。
二十二歳となったゼファーは王太子として公務をこなし、貴族たちからの信頼も得て一目置かれる存在となり、影響力も拡大してきている。
ゼファーと対面する機会のあった一部の国民たちからも、ゼファーが国王となる次代に期待を寄せる者も増え始めた。
ゼファーの王族たる天賦の才と、実力と、そして賜物『魅了』のおかげなのだろうか。
庭園に面した渡り廊下を抜け、ゼファーがいる建物までたどり着くと、マーガレットは立ち止まり、静かに息を整える。
この建物に、ゼファー様の書斎室がある。
幾度となく遊びにおいでと誘われたが、実際に来たのは今日が初めてだ。
ここからは、とびっきりの厚い笑顔の仮面を被らなきゃ。
マーガレットの不安げな背中を見つめたクレイグは、心配そうに声を掛ける。
「……お嬢様、どこかで休んでからでも」
「大丈夫よ、クレイグ。私、覚悟は決めたから」
これから私が意見する相手は、私より何枚も上手の、国に意見する権利を持つ王太子だ。いつもより淑やかに、したたかにいかなければ、私のほうが絡め取られてしまうだろう。
私だって厳しい妃教育を何年も受けてきたのだから……大丈夫、やれるわ!
意を決したマーガレットは建物へと足を踏み入れ、書斎室の扉を叩く。
―ガチャ。
応対に出てきた従者は、マーガレットを視界に入れると目を丸くして言葉を失った。しかし、扉近くの本棚にいたミュシャが、すぐに気付いて声を上げる。
「あら……マーガレット様!」
『マーガレット』という言葉に即座に反応したゼファーは、マーガレットの姿を捉えると、黙々とこなしていた書類を投げ捨てて椅子から立ち上がり、驚きと嬉しさにあふれた笑みを浮かべて近付いてきた。
「マ、マママーガレット!? 君がここに来るなんて僕は夢でも見ているのかな。僕に会いにきてくれたのかい?」
「……はい。何だか急に、ゼファー様のお顔が見たくなりましたの」
張り付いた笑顔を浮かべながら、マーガレットは書斎を見渡した。
書斎の壁は本棚で囲まれており、部屋の手前には、ミュシャや側近たちが業務をこなせるようにと、机と椅子が整然と並べられている。
奥の見晴らしの良い窓の近くには、ゼファー専用のアンティーク調の立派な書斎机があり、全体的に見ると書斎というよりも皆で使う執務室のような造りだ。
現在、目標は両手を広げてマーガレットへと直進中。
そのポーズの意図を察したマーガレットは一瞬固まったが、これからの目的のため、目を瞑ってゼファーの胸へと飛び込んだ。
マーガレットから飛び込んできた嬉しさにゼファーは力強く抱き締め、これでもかというほどマーガレットの頭を撫で回し始める。
その様子は、まるで長く会えなかった飼い主と良犬の再会のようだ。
ボサボサになってしまったマーガレットの髪を直しながら、ゼファーはマーガレットの赤毛の一束にくちづけをした。傍目から見たら、恋人たちの睦まじい愛のひとときである。
「ちょうど今、休憩しようと思っていたところなんだ。今日は良い天気だし、庭園でお茶を楽しみながら話さないかい?」
「……まあ素敵。それでは早速庭園へ向かい、え、きゃ!?」
突然両足に手を回され、軽々と持ち上げられたマーガレットは驚いて声を上げた。驚いたマーガレットは思わずゼファーの首に手を回して、お姫様抱っこのような形となってバランスをとる。
「おっと、ごめんよマーガレット。君が訪ねてきたことが嬉しくって、君をもっと近くで感じたくなってしまった。驚かせてしまったね。でも驚いた顔の君も、すごく可愛い」
「あ、ありがとうございます……」
今、この世で一番幸せという表情を浮かべ、熱を帯びた視線を送ってくるゼファーにマーガレットは気持ちを隠してどうにか愛想笑いで応えた。
しかし心の中では、フェデリコの件を自然な流れでどう切り出そうかと、頭をフル回転させているのだった。