第126話 楽しいひととき……
「なるほど、こういうことなのですね。フェデリコ様のおかげで、ようやく理解できました」
問題が解ける喜びを感じたマーガレットは、満足そうにフェデリコに微笑みかけた。
フェデリコから解き方を教えてもらって、問題を解いた時間はおよそ五分。
あの先生との時間は、何だったのだろうか。
どんなに優秀で権威のある立派な先生であっても、教え方が上手でなければ教え子には伝わらない。
「フェデリコ様は教え方がお上手ですね。フェデリコ様が幾何の先生だったらよかったのに」
「いやいや、ボクなんてまだまだ。
方程式をきちんと理解していれば、何となく解ける問題だし。マーガレット嬢の基礎がしっかりしているからこそだよ。それにこの問題って、幾何でも上級のものだよね。こんな問題、妃教育には必要なさそうだけど……」
フェデリコの抱いた些細な疑問に、マーガレットはリスのように愛らしく首を小刻みに動かして、激しく同意した。
「そうなのです。時々、どうして私はこの問題を解いているのだろうかと、自問自答することがあるのです。幾何って妃教育に必要でしょうか?」
「あはは。まあ、幾何はあまり役には立たないかな。空間を捉えるという意味では、とてもわかりやすいけど。幾何は建築に応用されているし、高名な建築士の方と話す機会があったら使えるかも」
「それだとやっぱり幾何は必要ないのでは」
マーガレットが眉にシワを寄せて問題を睨みつけていると、隣で頬杖をついたフェデリコが楽しそうにふふっと声を漏らした。
「そんなに幾何を責めないであげて。
ボクが教鞭を執っている『魔法科学』も新しい分野で、一部の教授からは『こんな分野に費用は出すべきではない』と言われるんだ。そのせいか、何となく幾何の気持ちがわかる気がする」
「それは失礼しました。魔法科学……とても楽しいことができそうな教科ですね」
と、初めて聞く教科のように答えたマーガレットだったが、『魔法科学』はフェデリコルートの重大な役割を担っているので、その重要性を心得ていた。
『魔法科学』については、その時が訪れたら語るとしよう。
何気ない会話を交わしながら、マーガレットとフェデリコは幾何の難問をつらつらと解いていく。
静寂の中、フェデリコは熱心に勉学に励むマーガレットの真剣な横顔を盗み見た。
ルビーのように燃える赤毛に隠れる、切れ長で美しい翡翠の瞳。優美なのにどこか親しげな眼差し。
そして何より、他の令嬢とは違う、気疲れしない会話。
昔と変わらないや。
手に持ったガラスペンを器用に回しながら、フェデリコは柔らかな笑みを浮かべた。
「ふふ。少し安心したよ」
「え?」
「マーガレット嬢がゼファー殿下の婚約者になってから、話す機会がなくてさ。パーティで見かけても、君は笑顔ではあるけどほとんど話さないし、正直楽しそうには見えなくて……今日久しぶりに話して、君が昔と変わってないってわかって安心した」
フェデリコの言葉を聞いたマーガレットは、不意に視線を落とした。
するとマーガレットの長い睫毛が強調され、フェデリコは睫毛に引き寄せられるように、食い入るようにマーガレットを見つめる。
マーガレットの心の中は、暗く冷たい海が風でざわめくように波音を立てていた。
ああ、そのことに気付いてくれた人もいたのね。
それだけで心が救われる。
「……よく見ていらっしゃるのですね。フェデリコ様の仰るとおりです。パーティでの私は、ゼファー様からただ笑顔でいることに務めてほしいと言われて、猫を被っていたのですよ」
苦い顔をしたマーガレットは、声を絞り出して続けた。
「…………貴族の方々が仰るような『ゼファー殿下のお人形』では、ないのです」
『ゼファー殿下のお人形』
それは、ゼファーの傍らでほとんど口も開かず笑っているマーガレットを揶揄して、貴族たちが付けた名だ。
以前はゼファーの膝に乗せたり抱っこして運んだりの、人形のような可愛がり方だったことも相まって、不本意ながらその名が浸透してしまった。
自分が物みたいな扱いを受けているこの名に、マーガレットは嫌悪の念を持っていた。
そんなマーガレットの胸の内を感じ取ったのか、フェデリコは持っていたガラスペンを乱暴にテーブルに置いて、怒りを露にする。
「そんな呼び方はごく一部の人が、殿下の婚約者のマーガレット嬢に嫉妬して付けた名であって、君が気にすることはないよ…………でも、そのゼファー殿下の笑顔でいることに務めるってお願いはどういう意味なんだろう?」
「私も最初は理解できませんでした。でもクレ、いえ従者と侍女が言うには、私が他の男性と仲良くならないように設けた決まりじゃないかと」
「うわぁー、それが理由だとすると、随分と独占欲の強い王太子殿下だ。イグナシオの嫉妬が可愛く思えてきた」
二人は、向かいのソファでクッションを顔に押し当て、だらしなく眠るイグナシオを覗くと、くすりと笑みを交差させた。
マーガレットは柔らかな笑顔をフェデリコに向けながらも、胸を掠めた小さな不安をさりげなく口にする。
「ふふっ、本当ですね……フェデリコ様も、あまり私とは仲良くしないほうがいいかもしれません。あの方は何をするか本当にわかりませんから」
「えっ、別に僕はそんなこと気にもしないし、怖くもないよ。それにマーガレット嬢のこと……じゃなかった、マーガレット嬢と話すのは楽しいし」
「あら奇遇ですね。私もフェデリコ様とお話しするのは、とっても楽しいですよ」
「……えっ!? 本当に?」
親友のときめきゲージを感知したのか、ソファで狸寝入りを決め込んでいたイグナシオが、我慢ならずに顔に置いたクッションを投げ捨ててこちらを睨んだ。
「おい、マーガレット。そのへんでやめておけ」
「え、何がですか?」
「……ったく、おちおち寝られやしない。幾何が解ったのなら、さっさと出ていってくれ。これ以上、フェデリコに吹き込むんじゃない!」
「あ、ちょっとお兄様!? 背中を押さないでください。フェデリコ様ありがとうございました。また教えてくださいね」
―バタンッ、ガチャ。
扉は固く閉ざされ、鍵をかけた音が虚しく廊下に響き渡る。
マーガレットは追い出されるような形で、イグナシオの部屋をあとにした。
どうして急に追いだされたのだろう。
フェデリコ様と仲良くしたから?
もしかして、私にフェデリコ様を取られると思ったのかしら。
「お兄さまったら本当に嫉妬深いんだから」
口を膨らませるマーガレットと共に追い出されたクレイグは、深くふかーく溜め息を吐いた。
まったく、お嬢様はご自分の魅力をこれっぽちもわかってない。
人の気も知らないで。
これで終われば、いつものクレイグの杞憂だったのだが……。
★☆★☆★
この日以降、フェデリコがフランツィスカ家を訪れることはなく、フェデリコから幾何を教えてもらうこともなくなった。
ある日、マーガレットがイグナシオにフェデリコのことを尋ねると、イグナシオは重い口を開いて教えてくれた。
フェデリコは自宅謹慎となって、イグナシオもしばらく会っていないのだそうだ。突然、フェデリコの父であるフィリオ侯爵が王家によって降爵されたらしい。
侯爵が降爵。
同じ音でわかりづらいが、降爵とは爵位を下げられること。
つまり、フィリオ侯爵からフィリオ伯爵へと格下げされてしまったということだ。
降爵って余程悪いことをしないとならないと思うのだけど、フェデリコ様が謹慎していることから考えて、フェデリコ様が何かしたのだろうか?
「一体どうして?」と思案した瞬間、マーガレットの背筋に冷たい戦慄が走り、額から思わず冷や汗が吹き出す。
まさかだけど、フィリオ家の降爵の理由って……。
フェデリコ様が、王太子の婚約者の私と仲良くしてしまったから?
私が過ごした場所と会話を交わした人物は、騎士たちが逐一報告している。
もしかして……私のせい?
マーガレットは頭が真っ白になった。
「フェデリコが幾何を教えてやれなくてすまないと、お前に伝えてほしいと手紙に書いてあった。一応言っておくが、お前のせいではないからあまり気にするな」
イグナシオが伝えてくれたフェデリコの言葉も、兄としての労りも、その一言一句を受け入れる余裕すらマーガレットにはなかった。
たった少しの間、一時間も一緒にいなかったのに。
幾何を教えてもらっただけなのに。
フェデリコ様は何も悪いことしてないじゃない。
フィリオ家を思うと、後悔と謝罪の念で胸が苦しい。
どうにかしてフィリオ家の降爵の件を取り消せないだろうか。
思考を巡らせば巡らせるほど、深いアメジストの瞳をキラリと光らせ、こちらに笑いかける大嫌いなアイツのことが浮かんでくる。
この最悪の状況を変えるには―――ゼファー様に直談判するしかない。