第124話 スタート地点
―ガチャ。
マーガレットとクレイグが廊下へ出ると、そこには鎧に覆われた騎士が一人佇んでいた。
クレイグの背後から顔を出したマーガレットは、騎士に穏やかに話しかける。
「ご苦労様です。今から兄の部屋に勉強を教えてもらいに行きます。よろしいですか?」
「はい、もちろんです。マーガレット様にご自由にお過ごし頂くのが、ゼファー殿下から命を受けた護衛騎士の務めですから」
ゼファーが王太子になってから、ゼファーの婚約者であるマーガレットの傍には、ゼファー直属の護衛騎士が常駐することになった。
しかし『軍事貴族』のフランツィスカ家の屋敷に、対立する『騎士団』の騎士が常駐するというのは前代未聞でかなり揉めたらしい。
結局、王家からの強い圧力もあり、『騎士を一人だけ、朝昼のみ』との条件でマーガレットの父・セルゲイは受け入れた。
ちなみに、同じ騎士がマーガレットの傍に居ることを嫌ったゼファーの要望で、ゼファー直属の第二騎士隊の騎士たちが三十人体制で日替わりで護衛を務めている。
最初の頃は慣れずに戸惑っていたマーガレットだったが、ゼファーに釘を刺された騎士たちは部屋の敷居を越えることは決してないため、プライバシーも守られている。
そのためか息苦しいこともなく、六年も経つともうすっかり慣れてしまった。
マーガレットはクレイグと護衛騎士を引き連れて、イグナシオの部屋へと向かった。
イグナシオの部屋の前で足を止め、マーガレットは扉を軽くノックする。
―コンコンコンッ。
すると、すぐに扉が開いた。
応対したのは、新しく従者になったロメオだ。
ロメオはマーガレットに目を留めると、切れ長な瞳を細めて軽く頭を下げる。
「こんにちはロメオ。お兄様はいらっしゃるかしら」
ロメオが口を開く前に、妹の声が聞こえたらしいイグナシオの苛立った声が、部屋の奥から聞こえてきた。
「何だ?」
「幾何でわからないところがあったので、お兄様に教えて頂けないかと思って。この前教えてもらったら、先生よりも教え方がお上手でしたから」
「……わかった。入れ」
少し含みのあるイグナシオの返答に頷いたロメオは扉を開けて、マーガレットを中へと案内した。
イグナシオの部屋は、バルコニーに面した窓ガラス近くに応接用の大きなテーブルとソファが設置されている。そのソファに、イグナシオは気だるげに手足を広げて横になっていた。
十九歳になったイグナシオは背も伸び、ソファに収まりきらない足がはみ出している。
お兄様は十九歳になっても、その不遜な態度は変わらないのね。
――って、もうひとりいる!?
イグナシオに視線を合わせていたマーガレットがふと横を見ると、イグナシオの向かいのソファにはオリーブブラウンの髪が眩しい、柔らかな笑みを浮かべた青年が腰掛けていた。
こちらに微笑みかける青年の名は、フェデリコ・フィリオ。
フェデリコと目が合ったマーガレットは慌てて会釈をする。
フェデリコはイグナシオの親友で、子供の頃からよく屋敷を訪れていたのでマーガレットも旧知の仲だ。
フェデリコもイグナシオ同様に十九歳となり、鮮明だった視力も下がって現在は眼鏡を掛け、インテリジェンスな雰囲気漂う青年へと成長した。
『恋ラバ』の攻略対象者のひとりでもあるフェデリコは、ローゼル学園の教授としてヒロインのアリスと出会い、恋に落ちることになる。
昨年学園を卒業したフェデリコは、論文を認められて学園の助教授となった。
みんな順調に『恋ラバ』のスタート地点へと向かっている。
私の場合は、逆にスタート地点に立たないよう、悪役令嬢にならないように努めなくちゃ。
マーガレットは、イグナシオたちのいるテーブルへと静かに歩みを進める。
音も立てず、軽やかな足取りで歩むマーガレットの優美さに、フェデリコは心を奪われた。
妃教育で厳しい作法を研鑽したマーガレットにとって、それは普通の佇まいであるが、そのつい魅入ってしまう華美な仕草には、貴族の醸し出す気品よりもさらに格上の上品さが漂っていた。
そんな麗しいマーガレットが眼前に来ても、イグナシオは寝転んだまま、ソファから起き上がる気配もない。
あらまあ。
ここまで動かないなんて、とても虫の居所が悪い時に来てしまったみたい。
フェデリコ様と喧嘩でもしたのかしら?
マーガレットがフェデリコに視線を移すと、フェデリコは隣の席を指差しながら「マーガレット嬢、こちらへどうぞ」と、学園の女生徒たちをすでに虜にしているであろう麗しの笑みを浮かべて、ソファへと促した。
「まさかフェデリコ様が遊びにいらっしゃっているなんて。お邪魔してすみません」
「別に気にすることはないよ。ボクも暇を持て余していたところだから」
マーガレットがフェデリコの隣にそっと腰掛けると、すぐに従者のロメオがマーガレットに紅茶を呈した。
イグナシオの従者だったサイラスは、『従者は学園卒業まで』という両親との約束を守り、フランツィスカ領へと戻って今は実家の建設業を手伝っている。
ここだけの話、卒業から一年経った今でも、お兄様はサイラスと手紙のやり取りを続けているようだ。
お兄様もサイラスがいなくなって淋しいのだろう。
サイラスが旅立った日、大号泣しながら見送るお兄様の姿を思い出すと、ソファに寝転がったままお茶を飲む無作法も多めに見てしまえるから不思議だ。
そして現在、お兄様の新しい従者となったロメオは、フランツィスカ家の使用人を取り仕切る家宰のジョージの甥である。
イグナシオお兄様よりも四つ上の二十三歳。
国税部で査察官を務めていたロメオをジョージが呼び戻した。
平民の出でありながら、貴族相手に強固な態度で取り締まる有能な人だったらしいと、クレイグが教えてくれた。
お兄様って強がりだけど、どこか抜けたところがあって時々やらかすし、自分より権力が上の人には弱いから、次期公爵となるお兄様のお尻を叩いてくれそうなロメオを連れてきたジョージには感謝しかない。
フランツィスカの安泰を心に願いながら、マーガレットは陶器のカップにくちびるを寄せ、甘やかな味わいにそっと喉を潤すのだった。