第117話 生ける伝説
――ガチャッ。
団欒室の扉が開くと、部屋にいた全員の視線は一斉にそちらへと向かった。
扉を開けたのは、五十代くらいの背の低い白髪交じりの女性で、金糸で織り込まれた細緻な刺繍が美しい豪華絢爛なドレスに身を包んでいた。
その女性は侍女はもちろんのこと、見るからに家柄の良さそうな貴族の女性を何人も引き連れている。すると女性は堂々とした笑みを湛えながら、部屋中に大きな声を響かせる。
「こんにちは、私の可愛い孫たち。みんなで集まって歓迎パーティをしていると聞いたのでやってきたのよ……あら! その赤毛、あなたたちがフランツィスカ家の? 二人とも遠目でも『あの方』の面影があるわ」
『孫たち』という言葉から、初対面ではあったが、この女性がアヴェルたちの祖母のジョアナ王太后であることを、マーガレットとイグナシオはすぐに理解した。
しかし王太后の言った『あの方』という言葉に、イグナシオをはじめ、孫のアヴェルやルナリア、シャルロッテは首を傾げている。
マーガレットはというと、祖父のルードヴィヒから『ある注意』を受けていたので『あの方』にはピンときていた。
ジョアナ王太后は私の曾お祖母様をとても慕っていて、曾お祖母様を城に『軟禁』したことがある。
そのことから考えると、王太后が嬉しそうに『あの方』と呼ぶのはおそらく……私の曾祖母の、レティシア曾お祖母様のことだろう。
ジョアナ王太后は、タオルを持ったまま佇んでいるマーガレットに目を留めると、マーガレットのもとへと駆け寄った。
ルードヴィヒから軟禁の話を聞いていたからか、こちらに笑顔で近付いてくる王太后にマーガレットの身体は一瞬身構えた。
しかし、優しい笑みを浮かべた王太后からは悪い印象は微塵も感じない。
こ、これなら大丈夫。
ちょっと気負いすぎたみたい。
そして王太后はマーガレットの目の前まで来ると、膝を突いてマーガレットを覗き込む。
「あなたがマーガレットちゃんね。よーくお顔を見せて」
すると王太后はマーガレットの両頬に両手を添えて、じっと見つめる。
王太后の目尻にはシワが寄り年老いた印象は受けるが、眼力のこもった瞳に見つめられると、すべて見透かされているような気がして、マーガレットは身動きひとつ取れなくなってしまった。
実はマーガレットは『ローゼンブルク近代史』という授業で、ジョアナ王太后はローゼンブルクの暗黒時代を支えた人物と習ったばかりなのである。
そのためか、まるで歴史の偉人に邂逅したように緊張してしまっていた。
そんなマーガレットの内心など知る由もない王太后は、ただ静かに、悠然とマーガレットをじっと見据え続けている。
誰も口を挟むことなど許されない、不思議な時間が流れた。
皆はただ、その様子を見守ることしかできない。
その間を破ったのは王太后の歓喜の声だった。
「まあまあっ……その赤毛もレティシア様に似ているけど、お顔もとっても似ているわ。瞳の色はもっと青みがかっていたけど、それ以外はそっくり。本当にレティシア様がそのまま小さくなったみたい、ふふふ」
「……そんなに似ておりますか?」
「ええ、とっても。あと十年くらいしたら私の相談相手になって欲しいくらいよ」
相談相手?
……相談相手って、王太子妃より楽かしら。
マーガレットの脳内で、『相談相手』と『王太子妃』が天秤の上でグラグラと揺れ、みるみる相談相手へと傾いていく。
そんなマーガレットの天秤、もとい皮算用を感じ取ったのか、焦ったゼファーはついに二人の会話に乱入した。
「お祖母様、マーガレットは私の婚約者なのです。勝手をされては困ります」
ゼファーは表情ひとつ変えることなく、王子らしい凛とした態度で抗議した。
するとジョアナ王太后は、わざと大袈裟に驚いて見せる。
「んまぁっ、ゼファーったら。そんなに独占欲が強いとマーガレットちゃんから嫌われてしまいますよ。私もその独占欲が原因で、大切な友人を失いました。そのことはあなただって聞き及んでいるでしょう?」
「……はい」
「ならばゼファー。あなたはもう少し節度を持つように努めなさい。ただでさえ、『あなたの行い』は許されるものではありません。
好きだからと、相手に何でもして良いなんてことはありませんよ。
愛があるからこそ、一歩離れて距離を取ってみるのも、また大切なのです。
私たち王家の者は、特にね」
「……はい」
流石のゼファー様も、暗黒時代を生き抜いた生ける伝説・ジョアナ王太后には反論できず、気まずそうに沈黙している。
ジョアナ王太后の言う『ゼファー様の行い』って、察するにアヴェルから私を取ったってことよね。
ゼファー様と私の婚約は、貴族の間で尾ひれを付けてウワサされ、その後、市井でも話題に取り上げられたらしい。
婚約が決まったのは朝方だったため、その日の新聞には前日のパーティが掲載されていた。
その新聞に、私とアヴェルが楽しそうにダンスを踊る写真が載っていたからか、兄が弟の内定していた婚約者を奪ったって批判も多いと、ターニャが楽しそうに教えてくれた。
この様子だと、ジョアナ王太后も『ゼファー様の行い』をよく思っていないのかもしれない。
よく考えてみれば、ジョアナ王太后は婚約披露パーティに姿を現さなかった。
それは、王太后の静かな怒りを示唆しているのだろうか。
とにもかくにも、しつこい油汚れみたいに纏わりつくゼファー様を諫めてくれてありがとうございます、王太后様。
ジョアナ王太后がいる間は、ゼファーは「待て」を食らった子犬のように近付かず、とても快適な時間を過ごせたのだった。