第109話 砂の城
「待ってください。ゼファー様!」
気付くとマーガレットは、払いのけたはずのゼファーの手を両手でギュッと握りしめて、懇願するように見つめていた。
「これはグリンフィルド騎士団長から受けた教えではありません……私がそうありたいと思っただけなのです!」
声が、震える。
ひとつでも言葉を間違えれば、ゼファー様はグリンフィルド先生に辛くあたって何かしらの処分を下すだろう。
最悪のことだってあり得る。
そんなことは、絶対にさせない。
するとゼファーの手がマーガレットの手を握り返し、優雅に微笑んだ。その笑みはまるで、天界から神が降り立ったような、この世の者とは思えぬ美しい輝きを放っていた。
それを見たゼファーの取り巻きたちは感嘆の声を漏らし、卒倒する。
しかし、その笑顔はマーガレットには醜悪な悪魔の笑顔のように映った。
ゼファーはその笑みを湛えたまま、ゆっくりと言葉を連ねる。
「何だ、そうだったのか。君のちょっとした妄想によるものなのだね……ねえ、マーガレット。だったらどうか僕の、『将来の夫』の助言を聞いておくれ。
君はいずれ王太子妃となり、やがては王妃となって国母となる女性だ。
君は国を代表する女性になるんだよ。
その国母たる女性は淑やかに優雅に、清廉な女性であってほしい。
君は他の女性とは違う。特別なんだ。特別な君は稽古なんて野蛮なことはせず、未来の王妃として格別なことを学んでいかなくてはならない」
「………………はい」
ゼファーの熱弁に、マーガレットは力なく従順な返事をするしかなかった。
絶対にグリンフィルド先生に迷惑をかけたくない。
婚約するために王命を使うような人ですもの。
グリンフィルド先生を騎士団から追い出すことだって、きっと簡単にしてしまうわ。
それに私のせいで、切磋琢磨しているイグナシオお兄様やクレイグたちの稽古の時間を奪うわけにはいかない。そんなのは絶対に嫌。
私は…………稽古を諦めるしか、ない。
潮らしくなったマーガレットに、ゼファーはさらに追い打ちをかける。
「それと、お話づくりなんていう俗っぽい書き物もやめるんだ」
「え!? でも、前は作家になれると褒めてくれたではないですか!?」
耳を疑ったマーガレットは、信じられないとばかりに震える唇で聞き返した。
しかしマーガレットの動揺を無視するように、ゼファーは淡々とした口調でさらりと告げる。
「あれは……妹の友人としては褒めたよ。でも君は、今は僕の可愛い婚約者だ。
あの時、君の書いた話は読ませてもらったけど、婚約破棄される話だなんて不謹慎すぎる。きっとあの頃は、アヴェルに婚約破棄されるかもと将来のことを憂いて書いていたのだろう?
僕はそんなことは絶対にしないから、心配しなくていいんだ。
そうだ、もうすぐ始まる妃教育に備えて、もっと有意義な習い事を始めてはどうだい? 習い事は僕が選んでもいいかな」
正直、その後のことはあまり覚えていない。
意思や決定権を奪われ、抜け殻のようになってしまったマーガレットが微かに覚えているのは、心配そうにこちらを見つめているクレイグとターニャの顔だけだった。
『王家との因縁』
ふと、お祖父様から聞いたあの話を思い出す。
曾お祖母様もお母様も、王家の一族から執着を受けていたと言っていた。
まさか……私もゼファー殿下に?
あんなにお祖父様に注意されていたのに。
もしかして私、とんでもないことに巻き込まれてしまったのでは……。
★☆★☆★
後日。
ゼファーのすすめで『刺繍』、『詩の創作』、『料理』の三つの習い事が始まった。
だが刺繍は隣で見ていたクレイグのほうが上手くなって、マーガレットは指に傷が増えていくばかり。
詩は壊滅的にセンスがなく、先生が頭を抱えている。
ただひとつ、料理だけは前世の記憶からの勘があったのか、人並みの腕前を手に入れることができた。
のちに、この三つの習い事はゼファーの母・トゥーラ妃が得意だったものとシャルロッテに教えてもらった。
有意義な習い事って、ただのトゥーラ妃の真似事じゃない。
ゼファー殿下って、まさか本当に私に亡きお母様を重ねているの?
マーガレットは愕然とした。
それはまるで完璧に思えた砂の城が無残に、粉々に崩れるように、マーガレットのゼファーへの感情は風化の一途をたどっていくのだった。
お読みいただきありがとうございます。
次は——
ゼファーのマーガレットへの残酷な仕打ちに腹を立てるクレイグ。
その怒りには、怒り以外の感情も混じっているようです。
真夜中、にゃんコフに導かれ、クレイグはある場所へと向かうのですが……。