第108話 向けられる悪意
マーガレットとゼファーは、仲良く並んでフランツィスカの庭を散策していた。
ゼファーが前回屋敷を訪れた際は、婚約を命じる王命書を届けて慌ただしく帰ってしまったため、こうしてゼファーと庭を歩くのは初めてのことである。
美しい花々が咲く庭の中、マーガレットとゼファーの後ろをクレイグやターニャ、ミュシャやゼファーの取り巻きたち、そして護衛騎士たちがゾロゾロと列をなしている様子は傍目には随分とコミカルだ。
庭散策が終わるとゼファーと取り巻きたちは、ある壁に目を留めた。
それは庭と稽古場を隔てるレンガの壁だった。
壁には大きな穴があき、レンガはバラバラになって瓦礫の山と化し、その空間だけはまるで荒廃した遺跡のような光景だ。
そのあまりにも場違いな眺めに、ゼファーはマーガレットに問いかける。
「これは?」
「あー、それは……私が稽古をつけてもらった時にあけてしまった穴とその残骸です。まだ賜物のコントロールが上手くできなくて」
「……稽古って、マーガレットは戦闘の訓練をしているのかい?」
「はい。もしもの時に身を護る手段は必要だと思いまして、日々これ鍛錬です」
照れ笑いをしているマーガレットに対して、ゼファーは眉を潜めて黙り込み、何か思案しているようだ。その静かすぎる間に、マーガレットも控えているクレイグやミュシャたちも固唾を飲んで見守っている。
すると考えがまとまったらしいゼファーは、そっとマーガレットの右手を握った。
「もう少し落ち着いてから話そうと思っていたのだけど、君に理解してもらうために話すね。実は君との婚約を大変喜んだ父が、僕を王太子にと言ってくれたんだ」
「……え?」
どういうことだろう。
『恋ラバ』のゲームで王太子になるのはアヴェルだったはずだ。
私がアヴェルと婚約しなかったこともだけど、ゲームの流れからズレてきているような気がする。
マーガレットの心配を余所に、ゼファーは話を続けた。
「僕が王太子になるということは、マーガレットは将来王太子妃になるということだ。王太子妃となれば君の命を狙う不届き者もでてくるだろう。
僕らの命の恩人のクレイグでさえも対処のできない手練れが襲ってくるかもしれない……だが心配はいらないよ。君にも護衛騎士を付けるように早急に手配するからね。
だからそんな野蛮な稽古なんて、王太子妃になる君には似合わないし必要ない。これからは、マーガレットらしく過ごしてくれ」
「……お心遣いには感謝いたしますわ。でも私の賜物は自分の身を護れますし、お稽古も楽しいのです」
「いやいや、そんなのマーガレットらしくないよ。マーガレットはか弱い令嬢なのだから、僕にもっと甘えてほしい」
マーガレットの肩を抱いたゼファーは、アメジストにも似た美しい紫色の瞳にマーガレットを映している。残念ながらその瞳には、マーガレットの燃えたぎるような怒りの感情を映すことはないようだ。
か弱い? 野蛮?
マーガレットらしくって、ゼファー様とは片手で足りるくらいしか会ったことがないのに、私の何を理解しているっていうの。
私らしいって……何?
戦っている私は、私でないというのかしら。
そもそも壁に大穴をあける時点で、か弱くなんてないでしょ。
……どうして私というものを、ゼファー様に決められなければいけないのだろう。仮にも婚約者だから?
要するに、王太子妃になるのだからもっとお淑やかに、ゼファー様の想像の中の令嬢として私に振るまえってことじゃない。
他人に私の在り方を決められるなんて、まっぴらごめんだわ。
マーガレットは肩を抱くゼファーの手を払いのけ、冷静な口調で意見を述べた。
「お言葉ですが、私は戦いを学ぶことを妃らしくないとは思いません。自分の身は自分で守れるに越したことはないと思います‼」
――ついに言ったわ!
先日からの溜まっていた鬱憤もあり、マーガレットはちょっとした解放感と高揚感に包まれた。
しかし、その解放感と高揚感はすぐに凍りつくものへと変わった。
なんとゼファーは左目からツーっとひと筋の涙を流したのだ。
ミュシャ以外のゼファーの連れて来た取り巻きや騎士たちは、どよめきを隠せずに慌てふためいている。
――え!? どうして泣いているの。
皆の動揺を横目に、ゼファーは眉間にシワを寄せ、まるで悲劇の主人公のように誇張した派手な仕草で嘆いてみせた。
「ああっ。マーガレットにそんな不可解な思想を吹き込んだのは誰なんだ!? 君はまだ八歳で、蝶よ花よと美しく、無垢であるべきなのに…………ミュシャ、フランツィスカで稽古を付けているのは、誰だ?」
「はい。グリンフィルド騎士団長ですわ」
「っ!?」
流れるような二人の会話にマーガレットはあ然とした。
何だろう。
まるでグリンフィルド先生が悪者みたいなこの流れは。
私が逆らったのに私を咎めるのではなく、私の周囲の人に悪意を向けるというの……!?
マーガレットの脳裏には、グリンフィルド先生を中心にクレイグやイグナシオたちが楽しく稽古をしている姿が思い浮かんでいた。
このままじゃ……私のせいで。
ゼファーの軽蔑したような深い溜め息が聞こえてくる。
「はあ。騎士団の上に立つ騎士団長ともあろう者が、年端もいかぬ令嬢に何てことを教えているんだ。これは由々しき事態だ。早急に対処しなけれ」
「待ってください。ゼファー様!」
気付くとマーガレットは、払いのけたはずのゼファーの手を両手でギュッと握りしめて、懇願するように見つめていた。