第105話 マーガレット、思い悩む
「はあ――――――――っ」
とある晴れた午後の日。
マーガレットは自室のバルコニーの手摺りを掴みながら、とある出来事を思い出しては八歳の少女とは思えない辛気臭いため息を繰り返していた。
何を思い出してマーガレットは悩める少女になっているのか。
それは四日前に王城で開かれた、マーガレットとゼファーの婚約披露パーティの時のこと――
マーガレットはパーティの主役の一人として、招待された貴族たちとの謁見を笑顔でこなしていた。
しかしどういうわけか、マーガレットはゼファーの膝の上に座っているのである。もちろんマーガレットがゼファーの膝の上を所望したわけではない。
マーガレットは最初「あちらの椅子に座りますので大丈夫です」と丁重に断りを入れたのだが、その椅子はゼファーの目配せですぐに片付けられた。
するとゼファーは自分の膝をポンポンと叩きながら、
「椅子はなくなったみたいだ。おいでマーガレット」と言って、ゼファーの膝上に強制的に着席させたのである。
さらにお手洗いに行こうとマーガレットが席を立つと、お姫様抱っこで化粧室までエスコートするしで、心の休まる暇もない。
ゼファーの束縛に精神的に疲れてしまったマーガレットは、無心で婚約披露パーティを乗り切る決意をした。
ゼファーは天にも昇りそうな幸福そうな顔で、無表情のマーガレットに美しい顔を摺り寄せてくる。
よくわからないけど、私がめちゃくちゃ気に入られてるっていうのはわかった。
でも、これじゃひとりでトイレも行けない。
はぁ、どうしたものか……。
悩めるマーガレットの耳に、三人の令嬢たちの会話が自然と入ってくる。
「あら、見てくださいませ。膝の上で固まって、まるでお人形のようですわ」
「八歳の子供が十六歳のゼファー殿下をどうやって……もしかして、ゼファー殿下って幼女がお好きなのかしら」
「まさか。ゼファー殿下にかぎってそんな……きっとフランツィスカ公爵家からの圧力で、仕方なく婚約なさったのですわ」
「アヴェル殿下との婚約がほとんど決まっていたらしいのに。振り回されたアヴェル殿下はお可哀そうに」
美形なうえに将来の国王候補ナンバーワンのゼファーを、様々な思惑で飢えたハイエナのように狙っていた令嬢たちは、ローゼンブルク国内だけでなく、他国にまで多く存在していた。
突然の婚約によって夢破れた令嬢たちからすると、皆が羨む大金星のゼファーと婚約したマーガレットは八歳の少女とはいえ、嫉妬の対象であるらしい。
そのためか、さっきから似たような会話があちらこちらから聞こえてくる。
私のことを悪く言うのは構わないけど、フランツィスカとアヴィを悪く言うのはやめてほしい。
こっちは王命を使われて、何もできずに振り回された側なんだから。
どうせなら王命を使って婚約したって公表してくれればいいのに、失礼しちゃうわ。
マーガレットがむくれていると、ひとりの令嬢が主催席にふらふらと近付いてきた。
青ざめた顔の令嬢の手には、料理用のナイフが握られていて、じりじりと距離を詰めてきている。
気付いた護衛騎士たちは、すぐにマーガレットとゼファーの前に壁のように立ち塞がった。
ゼファーはマーガレットを抱き寄せると、自分の背を盾にして先程までの緩んだ顔が嘘のように厳しい表情で令嬢に注意を払っている。
周囲の貴族たちも状況に気付いたのか、皆の視線はナイフを持った令嬢と主催席のマーガレットとゼファーに向けられている。
すると一人の護衛騎士が、令嬢の気を高ぶらせないように優しい口調で話しかけた。
「お嬢様。そのような物を持ち歩いては怪我をしてしまいます。どうかこちらにナイフを」
「さ、触らないでっ! 私はゼファー様に用があるの」
騎士を拒絶した令嬢は、ゼファーを見つめると恍惚の表情を浮かべてスラスラと語り出した。
「ああっ、ローゼンブルクの祖たるファビオラーデ神の子孫であらせるゼファー様。貴方様は神の生まれ変わり、ずっと陰ながらお慕い申しておりましたっ。
それなのに……何なのですか、その小娘は!? そんなに甘やかして……ゼファー様をあなたみたいな小娘に渡すものですか! 私こそ、ゼファー様の隣に相応しいのよーッッ‼」
声を荒げた令嬢はナイフを振りかざし、ドレスを翻してマーガレットに狙いを付けて突っ込んでくる。ギラリと青く光ったナイフはマーガレットへの殺意で満ち満ちていた。
しかし令嬢の殺意はマーガレットに届くことはなく、騎士たちによって取り押さえられ、すぐにどこかに連行された。
安堵の溜め息をこぼしたゼファーは、無言のまま身を縮めたマーガレットの背中を優しくそっと撫でる。
誘拐や氷の神殿の崩壊など、稀有な修羅場を乗り越えてきたマーガレットも嫉妬による殺意は初めてだったらしく、少々肝を冷やして黙り込んでいる。
ゼファー様の婚約者となったことで、こんな恐ろしいことがこれから度々あるのだろうか。
ゼファー様の婚約者になって初めて知ったことなのだが、ゼファー様はある賜物を常に発動させているらしい。
え、何の賜物かって?
それはこれまでの令嬢のお姉様たちの態度から想像してみてほしい。
令嬢たちはゼファー様の婚約者になって特別扱い(お人形扱い)されている私に嫉妬している。
私の悪口を言っていた三人の令嬢たちのようにゼファー様に憧れや恋愛感情を抱いている者もいれば、ナイフの令嬢のように崇拝にも似た心酔の念を持っている者もいる。
人々の持つそう言った感情に働きかける力、
それがゼファー様の賜物『魅了』だ。
このことを教えてくれたのは、ゼファー様の右腕のミュシャ・ヴァレンタイン卿。ゼファー様と同い年の十六歳で、すでに伯爵の爵位も持っているエリート中のエリートだ。
そして『恋ラバ』で悪役令嬢の私と同じ悪役側の人物でもある。
最初はザザルートの黒幕と怯えてしまったけど、話してみたら悪役どころか、とっても気さくで話しやすいお兄さんだったので驚きだ。
ミュシャ曰く、「マーガレット様ってゼファー殿下の魅了がぜんっぜん効かなくてすごいわあ~。殿下にとっては残念だろうけど、フフフ」と褒めてくれた。
ゼファー様の魅了は、ゼファー様に対して好意を持っていると効果が高いらしく、特に王子様に夢を膨らませる十代前後の私くらいの少女は賜物一発なのにと言っていた。
十代以下……それって私に前世の記憶があるのも関係してる?
(前世)二十歳+(今世)八歳で実質二十八歳だものね。
二十八歳は、王子様に夢を見ない現実主義なのか……。
何となく物悲しくなったマーガレットは重い溜め息を吐いたのだった。