第100話 イグナシオとルナリア
謙虚なイグナシオ様と仲良くなるためには、王女という地位の垣根を越えなくてはなりません! そのためにはイグナシオ様に『ルナリア』と呼んでもらって、仲良くなるのが一番の近道です。
だからこそ、イグナシオ様に親しみを込めて『ルナリア♡』と呼んでもらわなくては……呼んでいれば、そのうち本物の恋人同士みたいになるはずなのです!
見かけによらず、ルナリアは負けず嫌いで知略家だった。
そんな思惑があるとも知らないイグナシオは、ルナリアの精一杯の気迫に愛らしさを感じて観念し、自然と笑みをこぼした。
「はは、わかりました。あなたには負けましたよ……ルナリア」
ルナリア――――ルナリア――――ルナリア――――。
ルナリアの脳内では、イグナシオが自分の名を呼ぶ声がエコーをかけて何度も再生されていた。興奮のあまり、繋いだ手を離したルナリアは沸騰したように顔を赤く染めて飛び跳ねながら喜んでいる。
「ふふっ。ルナリア、ルナリアですって。ふふふ」
ルナリアの幸せに満ちた表情を間近で見たイグナシオは、今までに感じたことのない充足感を得ていた。
ちょっと前まで、この俺が六歳の女の子に振り回されるなんて思ってなかったな。サイラスが知ったら驚いてぶっ倒れそうだ。
気を取り直したイグナシオは、改めてルナリアの眼前に手を差し出した。
「さあ、参りましょうか。ルナリア」
「はい、イグナシオ様」
屈託のない笑みを浮かべたルナリアはイグナシオの手を取り、二人並んでゆっくりと歩き出す。だがここで、今度はルナリアが『あること』を思い出し、再び足を止めた。
「ルナリア……?」
「あの、イグナシオ様にひとつ謝っておかなければならないことがありまして」
「謝るって……妹にならいくらでもありますが、ルナリアに謝られるようなことはないと思いますが」
「いえ、その……あるのです! えっ、と」
何か思い出したらしいルナリアは頬を紅潮させると、恥じらいながらイグナシオの手をギュッと握った。
「その、先日は断りもなしにイグナシオ様のくちびるを奪ってしまって、申し訳ありませんでした。とてもふしだらなことをしたと反省しています」
「……ふ、ふしだらッ!? あー……そうでしたね。あの時は驚きました」
「……わたくしのふしだらな行動で婚約は決まってしまいましたが、イグナシオ様は随分抵抗なさっていました……イグナシオ様はわたくしのことはお嫌いですか?」
謝罪からの予想外の質問にイグナシオは驚いて顔を上げ、ルナリアをまじまじと見つめた。
シルクのように光輝く銀色の髪、宝石のように美しい淡い紫色の瞳、透き通った白い肌に薔薇色に紅潮した頬。イグナシオにはルナリアを彩るすべてが特別で愛らしく感じた。
さっきまで、自分より位の高い王女様と思っているくらいの存在だったのに、俺はどうしたというんだ?
ルナリアのことを知れば知るほど……これじゃまるで。
ルナリアはイグナシオを食い入るように見つめて、今か今かと返事を待っている。
ルナリアは俺が婚約に後ろ向きだったことを知っている。
今さら好きなんて言っても、逆に嘘だと悲しんで傷つけてしまうかもしれない。
「こ、好ましくは思ってい、ます」
イグナシオなりの精一杯の言葉だった。
中途半端な返答にも関わらず、イグナシオから出た『好ましい』という言葉にルナリアは喜びを隠しきれずに「よかった」と口にして満面の笑みを浮かべている。
か、可愛い…………ハッ!? 俺は何を。
これじゃまるでルナリアのことを……。
いやいや、いやいやいや。赤ちゃんのルナリアを抱っこしたこともある俺が?
将来公爵の俺が、そんなにチョロいわけがないっ。
……それに俺は軍事貴族だ。
軍事貴族は王家にではなく、国に、民に仕える機関。
国を揺るがす事件が起きた時、最悪の場合は『王家を断罪する』ことだってある。下手をしたらルナリアは、家族を断罪した家の妻になってしまう。
ここまで俺に対して真摯に向き合ってくれるルナリアだ。
この件についても、包み隠さずきっちりと話しておかないと。
「ルナリア、私と結婚するということは軍事貴族の妻になるということです。あなたはまだ知らないかもしれませんが、軍事貴族は」
「王家を滅ぼすこともあるのですよね。お母様から聞きました。わたくしはそれでもいいと、家族を敵に回すことになっても大好きなイグナシオ様のお傍にいたいと、心からそう思ったのです。あの、ダメですか?」
淡い紫色の瞳をゆらゆらと潤ませ上目遣いで見つめてくるルナリアに、気付くとイグナシオは「もちろんです。ダメじゃないです」と食い気味に答えていた。
俺より七歳年下の六歳の女の子のはずなのに、ルナリアは俺よりもこの婚約にずっと覚悟を持って臨んでいる。
俺だって、将来はフランツィスカの家督を継ぐ。
軍事貴族のトップであるフランツィスカは、時には難しい選択だって残酷な決断だってするだろう。
俺にその覚悟はあるのか。
ふとこちらを見ているルナリアと目が合った。
イグナシオを信じて疑わない真っ直ぐな瞳。
その瞳に見つめられると、イグナシオの心に巣くう弱い心も晴天のように晴れていく。
ああ、そうか。
イグナシオはルナリアの足元に跪き、ルナリアの手を取った。
「ルナリア、あなたのお覚悟受け取りました。ならば『俺』もルナリアが誇れるような夫となるように努力いたします。だからその、ルナリアには将来妻として『俺』を支えていただきた……あ! 俺じゃなくて私を支えて」
「ふふ、俺でかまいません。わたくしの前ではいつまでもありのままのイグナシオ様でいてください」
それは衝撃だった。
将来の公爵としての重荷、出来のいい妹との比較、とある目上の貴族に『俺』と言ったことでの大きな失敗。
ルナリアのひと声は、イグナシオに重くのしかかった悩みのすべてを見事にひっくり返した。
「ルナリアっ、俺を選んでくれてありがとう」
そう言ってイグナシオは、ルナリアの頬にくちづけした。柔らかな感触が肌に触れ、ルナリアは目を丸くしてポカンとした表情を浮かべている。
そして事の重大さに気付いた時には、林檎でも収穫できそうなほど顔を真っ赤に染めていた。そのルナリアの様子を見て、イグナシオはにっこりと笑う。
「断りなしのキス、おあいこですね。これでルナリアはふしだらではないですよ」
「ひゃ、ひゃい。そうですね」
そんな二人の微笑ましい光景をこっそり覗いていたのは、いつの間にか二人に追いついたマーガレットだった。
「わお。お兄様ったらやるじゃない。上手く話し合えたようでよかったよかった……にしても、いつになったら琥珀宮に着くのかしらね、あの二人。どう思います、皆さん?」
マーガレットの後ろには、婚約したばかりの二人に気を遣い、通るに通れない使用人たちの行列ができていたのだった。
ついに100話ですね。
100話がイグナシオの話で驚いています。
100話まで続けてこられたのは、読んでくださる皆様のおかげです。
本当にありがとうございます。