第1話 水も滴る悪役令嬢、改心する
ローゼンブルク王国王城、翡翠宮の一室。
格子窓から差し込む月の光に照らされたマーガレット・フランツィスカは、翡翠色の瞳を真っ赤に腫らして俯き、月光で輝く赤毛を振り乱して泣き崩れていた。
ああ、どうしてこうなってしまったの。
どんなに抗っても、私は幽閉される運命なの?
お父様、お母様、イグナシオお兄様。
屋敷の皆、ターニャ、そして……クレイグ。
私のせいで皆死んでしまった。
ごめんなさい、ごめんなさい。本当にごめんなさい。
彼女がなぜこうなってしまったのか。物語は十二年前まで遡る。
★☆★☆★
十二年前。
フランツィスカ家邸宅の樹木茂る小さな池にて。
大人にとっては小さな、しかし子供にとっては湖のように大きな池。
そこで一人の少女が今まさに溺れていた。
ゴボ、ゴボ、ゴボァッっ。
口にも鼻にも池の水が入り、正常に息をすることができない。
「誰か、誰か助けてぇぇ――――っ、マーガレットが死んじゃうっ‼」
遠くで引き裂かんばかりの声で子供が叫んでいるが、耳にも容赦なく入る水のせいでよく聞こえない。
―あぁ、このまま私、死んでしまうの?
手をバタバタと必死に動かして藻掻いても、何も掴めず空を切る。意識が遠のき力尽きる寸前、大きな腕がガバッと私の腰を掴んだ。
「大丈夫ですか、お嬢様っ!?」
助けてくれたメイドの格好をした女の人は、すぐさま私に応急処置を施す。
すると、飲み込んだ池の水がグェェェと口から鼻から出てきた。
「マーガレットっ‼ マーガレットは無事なの、タチアナ!?」
血相を変えてやって来たのは、豪華なドレスを着た豊満で鋭い眼差しの赤毛の女の人だ。
その人はドレスが汚れることなどお構いなしに、池の水と吐しゃ物を吐き出してボロボロになった私を抱き締める。
あ、れ……おかあ、さん? あたたかい。
私が力なく抱き締め返すと、女の人はほっとした顔で涙を浮かべて笑い、私の頭を愛おしそうに撫で回した。
大きな手。何でこの女の人の手、こんなに大きく感じるんだろう。
だんだんと意識がはっきりしてきた私は周囲を見渡す。
近くには私を助けてくれたメイドさんもいて、ほっと胸を撫で下ろしている。
池の近くには、他にも高価なドレスを着た銀色の髪の優しそうな女の人と、その人に抱っこされた同じく銀色の髪の小さな女の子が心配そうに私を見ていた。その隣には紫色の瞳に涙を溜めた銀髪の、小学校入りたてくらいの美少年が青ざめた顔で身体を振震わせていた。
銀髪に紫の瞳、それにあのきれいな顔。
何だろう……この男の子、どこかで見たことあるような……う―――ん、どこだっけ?
私は俯いた。
―え?
俯いた弾みで池の水面に映った自分の姿が目に入る。
え、えぇ―――っ!?
赤毛の小さな女の、子⁉ これが私?
そこにいる銀髪の男の子と同い年くらいの、この女の子が私なの?
信じられない私は自分の手足をバタバタと動かしてみる。私が動かしたと同時に水面のあの子も暴れ出す。
私はこの女の子が自分だと確信せざるをえなかった。
派手な赤毛に翡翠の瞳、おまけに気が強そうな顔立ち。
これじゃまるで『恋ラバ』の悪役令嬢マーガレットね…………ん? そういえばさっきからこの人たちに私は何て呼ばれて……確かマーガレットって、ま・さ・か。
あまりの信じられない出来事に脳がついていかず、マーガレットは気を失った。
★☆★☆★
次に目が覚めた時、マーガレットはベッドの上にいた。
マーガレットの目は開いたが声は出せず、体も動かない。
すぐ傍で看ていたマーガレットの母だと思われる赤毛の女性は、目に涙を浮かべて見守っていた。しかし目を覚ましたマーガレットに気が付くと、興奮してマーガレットをしかりつけようとしたので、医者とメイドにたしなめられて別の部屋へと連れていかれてしまった。
誰もいなくなって静かになった部屋で、マーガレットはぼんやりとした頭を整理する。
私の名前はマーガレット・フランツィスカ。
フランツィスカ家の長女、六歳。
さっきのカンカンに怒った女の人はお母様で、レイティス・フランツィスカ。
お父様はセルゲイ・フランツィスカ。お父様は侯爵、お祖父様は公爵の爵位を持っている。
兄弟は五つ上に兄のイグナシオがいる。
不思議。この子の記憶が、まるで私の記憶のように流れこんでくる。
しかし、それ以上に不思議な事実に気付いたマーガレットは目を細めた。
ここって『恋ラバ』の世界よね。
『恋ラバ』とは、前世で流行っていた乙女ゲーム『恋せよ乙女 アリスinラバーランド』の略称だ。
私の置かれた状況を鑑みると、これってやっぱり乙女ゲームの世界に転生しちゃったってことなのかしら。
それも恋ラバの、悪役令嬢マーガレット六歳の身体にいきなり転生しちゃったってこと? …ううん、ちょっと違う。マーガレットとして生きた記憶も感情も、私ははっきり覚えてる。
だから正確にはマーガレットに転生して六年経って、溺れたショックで記憶を取り戻したのが正しいだろう。
あれ、転生したってことは前世の私って死んだの?
何で? 大学は……いたたっ。
前世を思い出そうとすると激しい頭痛に襲われ、マーガレットはそれ以上前世のことを考えることはできなかった。
だめだわ、頭痛い。
前世のことは後回しにして、この世界『恋ラバ』について考えてみましょう。
私がマーガレットなら、さっきの銀髪の少年はどうしたってアヴェルだろう。
第三王子アヴェル・ローゼンブルク。
アヴェルは『恋ラバ』のメイン攻略対象者だ。
主人公のアリスがアヴェルルートに進んだ場合、立ちふさがるのがアヴェルの婚約者マーガレット、つまり私である。
ちなみにマーガレットの記憶によると、六歳の今の時点ではまだ婚約はしていないらしい。
アリスがアヴェルと親密になればなるほど、嫉妬したマーガレットのヒロインいじめもヒートアップ。そして学園の卒業パーティで、公衆の面前で婚約破棄を叩きつけられて断罪されるのがマーガレットの役割なんだけど、あれぇぇ……。
確かマーガレットって攻略対象者たちのほとんどのルートのラストで「マーガレットは婚約破棄され幽閉されました」って物の序みたいな文が流れていた気がする。ほとんど登場しないルートでも幽閉されて可哀想って思ってたからよく覚えている。
え、待って、ということは私って物凄い確率で幽閉されるんじゃ……。
そもそも幽閉って何?
どういう生活をどのくらいの期間送るの?
まさか、一生死ぬまでじゃないわよね。
前世でゲームしている時は幽閉エンドがほとんどで、処刑も国外追放もなくて何て悪役令嬢に優しいゲームと思っていたけど、幽閉エンドって結局どうなるってことなの?
牢屋に閉じ込められて食べ物もろくに与えられず餓死とか?
それとも拷問、暴力!?
まさか……口では言えないような、いやらしい事をされるんじゃ……。
マーガレットは身体から血の気が引いていくのを感じる。
怖い、怖すぎるっ。
こうなったら、何としてもアヴェルと友好的な関係を築いて平和的に婚約解消、いいえ婚約しない方向に持ち込まなきゃ。