第9話 グレーネマイヤー
――ないわ。
ウルスラは下唇を噛んでうつむいた。
「馬鹿なことはするな」と特大の釘を刺されたけれど、とにかくウルスラは妄想ノートを灰にしたい。
これはきっと黒歴史を第三者の手に渡してしまった者にしかわからない焦燥感だろう。
だからウルスラはとにかく隙を見つけてはこそこそと行動していた。
その水色の目がカピカピに乾くほど目を見開いて探したのだが、目の渇きもむなしく旅の途中で絵を見つけることは叶わなかった。
途中で休憩したり宿で休んだりするたびにそれとなく馬車の中を探ったりもした。
王都で買ったと思われる物の箱を積んだ荷馬車を突き止めて、箱をこっそり開けてもみた。
箱の中身は隙間なく詰め込まれた瓶で、瓶の中身は魔道具制作の触媒になる魔物の眼球であった。
無数の虚ろな目と見つめ合う状態になったところで心臓がおかしなくらいドンドコ鳴って血の気が引き、崩れ落ちそうになっているところを、ウルスラを探しにきた侍女に救い出されてしまった。
それ以降、彼女がウルスラの側をびったりと離れない。
人の良い侍女、ハンナはウルスラを虚弱で衝撃に弱い女だと勘違いしたらしい。心配してくれたのだと思う。
それはとてもありがたい。ハンナは己の黒歴史を探し回っていただけの女にきめ細やかに心を砕いてくれる。申し訳ない。
だけど単独で行動できないでいるうちに、馬車は本日グレーネマイヤー領の領都に入ってしまった。
王都からの道中、馬車から絵を発見できなかったことは痛恨だ。
各国大使との食事会開始一分前になってもやってこないリヒャルトを待っていた時よりさらに、ウルスラの心はひりついていた。
そんなウルスラを乗せて、馬車は滞りなくグレーネマイヤー領の領都の中心部を進んでいく。
ダンジョンの入り口を中心に発達していった歴史があるこの領では、すれ違う領民も冒険者や冒険者を相手に商売をしている者たちが多いようだ。
領民の顔は明るく、活気がある。
しかしこの地は、領地支配していたグレーネマイヤー子爵がダンジョンの管理を怠っていたせいでダンジョンから魔物が湧き、当時の領民から大量の死傷者が出てしまった過去がある。
グレーネマイヤー子爵の一族もほとんどを魔物に殺されてしまった。
ダンジョンが領の中心であるがゆえに、この地は冒険者ギルドの声が強い。彼らは失態を演じたグレーネマイヤー一族の生き残りを新領主に据えることを良しとしなかった。
ダンジョンから湧いた魔物の処理を行ったのは冒険者ギルドであったから、王都でもギルドの反対を重く見て、長らくグレーネマイヤー領は王家直轄の地として扱われていた。
ウルスラが特殊な過去を持つこの領地に初めて関わったのは、リヒャルトの公務を手伝っていた時だった。
もともとの土地の性質に加えて、グレーネマイヤー子爵の失態があったことから何より強さと責任が求められる場所柄ゆえに、〝決闘〟とか〝名誉〟〝死闘〟〝忠義〟〝駆け引き〟といった、およそ公的な文書ではあまり見ない言葉がさも当たり前のように書き記されていた。
その時の文書は、貴族出身の冒険者が身分をかさに着て平民を切り捨てたことへの処分を巡って決闘騒ぎがあったという報告だった。
その頃、国全体として貴族と平民の対立が問題になり始めていたこともあり、貴族出身の冒険者の身元によっては王都の貴族たちへの影響も否めない、かなり真面目な話である。
だというのに、リヒャルトはウルスラの隣で公務を放棄し、側近と一緒にペンを使って定規を弾き飛ばして遊んでいた。
ウルスラは文書の不穏な単語に不謹慎ながら胸がきゅんになっていたので、遊び始めたリヒャルトたちをほっといて文書を読み込むことができた。のちの会議にも万全の状態で挑めたことも同時に思い出す。
かなり重要な書類であり会議だったというのに、そんなことはお構いなしに机の上から定規を落としたら罰ゲームにおやつ抜きという平和すぎる戦いに必死になっていたリヒャルト。
思い出すと今でも情けなくて涙が出そうだ。
そういえばあの時に物差しバトルをして遊んでいた側近は、レナードへ無礼極まりない文書を持ってきた伝令騎士だったような気がする。
元気な子供の声にそんなことを思い出していたウルスラは、この地の新領主として認められたレナードの顔を思い浮かべた。
そして馬車を襲ってきた鳥の魔物を本当にあっという間に倒してしまった強さも一緒に思い出す。
このグレーネマイヤー領は西部にある。バジリスクのいた森からはやや遠いとはいえ、その影響がないわけがない。
レナードを新領主としてグレーネマイヤーの名を授けたい。という王都からの打診がすんなり通ったのは、あの西の森のバジリスクを一刀両断できる男ならば、と冒険者ギルドが了解したからだ。
物差しバトルの勝者では、この地を踏むことすらできないに違いない。
できれば本物の英雄であるレナードの叙爵式を見たかった……。と、ウルスラはため息をついた。
ウルスラは婚約を破棄されてから両親によって王都の社交界に顔を出すことを止められていたから、それを見ることは叶わなかったのだ。
王都とは違ってがらっぱちな人が多い大通りを、馬車の中からやや圧倒されながら眺める。
その威勢の良さとは反対に、ノートを隠した絵をついに発見できずに屋敷へ到達するというピンチに、ウルスラの肩はしょぼんと落ちた。
レナードの屋敷に隠されてしまったら、馬車という限定的な空間から見つけ出すよりもさらに発見は困難だろう。
いっそ手違いで道中の野営で焚火の焚き付けとして使われていたらどんなにいいか。
元気のないウルスラの様子に、レナードからウルスラの世話を頼まれている侍女のハンナがおろおろしながら声をかけてきた。
「大丈夫ですよ奥様! 旦那様はお強いですし、バジリスクの幼体など束になっても適いません! すぐに奥様の元へ帰ってきてくれますとも!」
中年女性特有のふっくらとした手のひらが、少しためらいながらウルスラの背中を撫でた。
母にもしてもらったことがない慰めをとまどいながらも受け入れつつ、ウルスラはハンナの言葉にハッと顔を上げた。
そういえば自分が今まで自由に動いて絵の捜索ができていたのは、レナードがいなかったからだった。
魔物討伐という戦地に赴いた夫を心配して元気がないのだと慮ってくれるハンナに申し訳なくなって、ウルスラはますます眉尻を下げた。
なんというか、その……ウルスラはレナードのことを全然心配していなかった。
本当に、全く、全然。
だってレナードは強いから。