第6話 つまり、つまり、つまり……!
緊急事態に各地を走る王家直属の伝令騎士の権限は強い。
彼らの存在は道を走るだけで緊急事態を告げるのだ。伝令騎士が存在だけで告げてくる何かしらの危機に、レナードがわずかに眉をひそめた。
ウルスラにはその苦い顔の理由が、恋敵であるリヒャルトの名前を聞いたせいに思えてしまって、こんな時だというのにちょっとだけ胸にぐっときた。
王都からの緊急の伝令を告げている場面なのだから、胸をきゅんきゅんさせてみぞおちに痛みを感じている場合ではない。
壊れた魔道具を叩いて直そうとする実家の父のように、己の心臓を叩いて脈を落ち着かせるウルスラの隣で、渋い顔をしたままのレナードが書類を開いた。
「……気になりますか」
首を伸ばして手元を覗き込んでいたのがバレたらしい。
どうぞ、と言いながらレナードが書類をウルスラに渡しながら聞いてきた。
「ふざけた話です」
レナードが怒りを含んだ声で言って、ウルスラが持つ書類を視線で差した。
それでウルスラは慌てて書類に書かれた文字を目で追った。
「まあ……」
書類には、先日レナードが退治したバジリスクが棲んでいた西の森からバジリスクの幼体が五体出現し、バウアー伯爵領で暴れていること。
せっかく第二王子殿下が下した討伐命令を完遂できなかった責任をレナードに問うこと。
さらには汚名返上のために即刻西の森まで行って、グレーネマイヤー男爵家の独力でバジリスクの幼体五体を退治せよ、と書かれていた。
久しぶりにウルスラは胸にきゅんではなく怒りを覚え、水色の目を伝令騎士に向けた。
「グレーネマイヤー男爵家独力で。と書かれておりますが、王家直属の騎士団はその間、何をなさるの?」
これは王家直属の伝令騎士が寄越した命令である。ということはつまり、王家もこのバジリスクの幼体出現を知っていて、伝令騎士を出すほどの緊急事態であることを把握しているということだ。
さらに伝令騎士を動かしたということは、王家直属の騎士団を動かすことも可能であるということである。
だというのに、王家は騎士団を動かすとはひとつも書かれておらず、兵站についてや西の貴族たちへの応援を取り付けるという約束もない。
西部の救世主とも言えるレナードに対して、これはあまりに無礼である。
おそらくは王家というよりはリヒャルトの指示であろうこのお粗末な命令に、ウルスラの口から思わず皮肉がこぼれ出た。
「緊急事態のために組織された騎士団が、その緊急事態を把握しながら……まさか王都で高みの見物ですの?」
「――ウルスラ・フォン・ロイター侯爵令嬢とお見受けする。失礼だがただの令嬢が……夢破れた令嬢が王家直属の騎士団である我々の動向へ口出しをされたこと、王都帰還後、必ずリヒャルト第二王子殿下へご報告させていただくが……よろしいですかな」
よろしいですが、それが何か?
ふふんと鼻先を空へ向けた伝令騎士に、そんなもの痛くも痒くもないが? と答えようとして右足に重心をかけ、前のめりになったウルスラの行く手を遮ったのはレナードだった。
「ロイター侯爵令嬢ではない。彼女は私の妻、ウルスラ・フォン・グレーネマイヤー男爵夫人だ。敬意をもって接してもらおうか」
妻!
夫人!
全く予期していなかった方向から石礫が飛んできて頭に当たったように、ウルスラの頭はくらくらと揺れた。
頭というより脳が揺れたのかもしれない。目に星が散って、顔が熱くなった。きゅんである。
「……グレーネマイヤー男爵夫人、非礼をお詫び申し上げます」
お詫び申し上げているにしては頭を下げるでもなく、伝令騎士は大胸筋を反らして告げた。
フンと咳払いしてからレナードに別の書類を突きつけるその姿に既視感を覚えて、ウルスラは小首を傾げる。
ああ、そういえば……このそばかすの散った顔には見覚えがある。と、ウルスラは思い出して目を瞬かせた。
リヒャルトの側をうろちょろしていた取り巻きの一人だ。
なるほど。王家の命令というわりには騎士団が動いている様子どころか動く気すらないような文面であることにも、伝令騎士がリヒャルトの取り巻きであることと、書類の下部にリヒャルトのサインしかないことで合点がいった。
場違いなほどのびのびとした書体で書かれた能天気なリヒャルトのサインをそっと人差し指でなぞって、ウルスラは納得のため息をついた。
そのあたりをついて命令を撤回させることもできそうだ。
〝夢破れた令嬢〟などと揶揄されたけれど、ウルスラはまだ王城に顔が利く。
なにせリヒャルトの代わりに王城で仕事をしていたのはウルスラなので、顔なじみの文官に頼めばこの命令について騎士団へ問い合わせることもできるだろう。
ウルスラはレナードへわけを話して王都へ引き返そうと提案するために口を開きかけて、もう一枚の書類を読んでいた彼が漏らした呟きに思わず固まってしまった。
「カタリナ……」
二枚目の書類は、むしろ書類というよりは手紙と言ったほうがいいだろう。
やわらかいピンク色に染まった紙の上に、西部で見たことがあるカタリナの筆跡が踊っている。
ちらりと横目で見れば、そこには『頼れるのはあなただけ』とか、『私を憐れと思うなら』とか、『私のためにもう一度剣をとって』『私をこの苦しみから救い出して』などと、とてもとても心臓をざわつかせるワードが並んでいた。
つまり、つまり、つまり……!
湧き上がる感情を抑えようとすると指先が震え、心臓が痛む。
書類に指を置いた状態で小刻みに震えるウルスラの脳内に、今この手元に胸きゅんノートがあったなら高筆圧で力強く書いたであろう文章が高速で流れていく。
つまりリヒャルトに奪われてしまったレナードの大切なカタリナお嬢さまはリヒャルトに監視されつつもその目をかいくぐり唯一の味方であったリヒャルトの取り巻きに手紙を託してレナードに助けを求めているという、にわかには信じられないシチュエーションが目の前に「さあどうぞ胸がいっぱいになるまで堪能なさい」と言わんばかりに繰り広げられているということか!
そういうことかと、ウルスラは完璧に理解した。
数えるほどしかカタリナとは会ったことはないが、彼女は自分の魅力をよく知っていて、どう振る舞えば人が自分を支えてくれるようになるかもよくわかっていた。
やや露骨でやりすぎな印象もあったけれど、単純なリヒャルトであれば、カタリナが手のひらの上でくるくる躍らせることだって簡単だっただろう。
そして主人に似た性質の取り巻きを、同じようにくるくるさせることだって容易だったに違いない。
西部の森にバジリスクの幼体が出現したことが本当ならば、彼女はそれをきっかけにレナードへ助けを求めることにしたのだ。
ウルスラへの伝令騎士の態度が悪かったのも、いまやカタリナ嬢の虜となってしまった彼にしてみれば、カタリナを虐めたウルスラは親の仇より憎いからだと推測される。
それもまた、胸きゅんのスパイスとしてはピリッとしていてなかなか良いではないか。
ああ、心臓が痛い……。
ウルスラは浅く呼吸を繰り返し、あまりの胸きゅんに倒れそうになる自分を叱咤した。
これは現実。大衆恋愛小説が具現化したような事態に混乱しそうになるけれど、これは現実なのだ。
あと公私混同に国の防衛機関が使われていることにも失神しそうになったけれど、それも受け入れねば。
手に持った書類の金箔のつやっとした質感と、リヒャルトのサインで窪んだ紙の表面を指先でなぞってウルスラは怒涛のように襲ってくる胸の痛みに耐える。
そのウルスラの横で、「お嬢様」と、低い声でレナードがウルスラを呼んだ。
「くれぐれも馬鹿な真似はしないでくださいね」
と、緊急事態に伝令騎士が持ってくるには可愛らしすぎる手紙を大きな手でグシャッと握りしめながら、レナードが言った。
「……はい」
愛する乙女のために英雄が西の森に行く! 恋敵の命令で! と興奮していたところを特大の釘を刺されてしまったウルスラは、しおらしくうなずいた。
彼の言う「馬鹿な真似」に、身に覚えがありすぎたので。
レナードが居ぬ間に、黒歴史を隠したリヒャルトの絵を探そうと思っていたことを見透かされてしまったのだろうか。
どこにあるのかウルスラの恥部、黒歴史。
元婚約者の下手くそな花の絵を思い出しながらリヒャルトのサインを指でなぞっていたウルスラを刺すような鋭い視線で見つめたあと、レナードは深くて暗いため息を吐き、人を呼んで馬車の行き先をグレーネマイヤー領と西部の森へと分けたのだった。