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第15話 燃やすわよ!

 夜。


 夫婦の寝室で落ち着いた白いベッドに一人あおむけで寝転がり、ウルスラは暗闇の中で水色の目をかっ開いた。


 「燃やすわよ!」


 ガバッと起き上がったウルスラは、起立性の貧血で目の前が白く霞みはじめるのを根性で押さえつけて鼻から息を吸った。

 分厚いカーテンから漏れてくるのは月明かりと、警備のために屋敷の外に作られた外灯の光だ。正確な時間はわからないけれど、夜も深いのだと思う。


 思いがけずリヒャルトの絵を見つけたあのあと、あまりの興奮に火災時の半鐘のごとく心臓が打ち鳴らされたせいで血管や血圧もつられて悲鳴を上げた。

 どんどん顔色が悪くなるウルスラを心配したハンナによって強制的にベッドに押し込められると、長旅の疲れもあり意志とは反対に気絶するように眠ってしまって今に至る。


 それでも意識が落ちる寸前に、あの絵をどこに片づける予定なのかをハンナから聞き出した自分をほめたい。


 見た夢はもちろん悪夢だった。スミレの花に囲まれて、ノートに書いた妄想をひとつひとつ読み上げられる夢である。

 目覚めた今もまだ心臓が痛い。


 ウルスラはナイトウェアにガウンを羽織り、裸足のままそっと部屋のドアを開けた。

 絨毯が音を消してくれるとはいえ、隠密行動をするには裸足の方がいい。レナードがロイター家にいた頃、こっそり部屋を抜け出していた時にもそうしていた。


 まさか大人になってからこんなスキルが役立つとは思わなかったけれど、あの頃の経験が誰にも見つからずにウルスラを目的地までスムーズに運んだ。


 慎重にドアを開けた先、足を踏み入れたのはウルスラの部屋だ。

 ハンナが「奥様の部屋」と言ったあの空っぽの部屋である。


 照明が消えた部屋には昼にハンナが言った通りに暖炉の火だけは燃えていて、カーテンのない窓から月と警備用の照明のわずかな光が差し込んでいる。


 ウルスラが探していた絵は、暖炉の近くの壁にかかっていた。

 暖炉の炎がスミレの花を仄赤く照らしている。


 寝落ちする寸前にハンナへそのスミレの絵をどこへ片づけるのかを聞くと、「奥様のお部屋へ飾るようにと、旦那様から指示されております」と彼女は答えた。

 壁にかけられたスミレの絵を少しだけ離れたところから眺め、ウルスラはそのあとに続いたハンナの言葉を思い出す。


 ――奥様が、ご実家から唯一持っていきたいとおっしゃった思い出のお品だと聞いております。


 思い出……?

 ハンナの言っていたことが全くしっくりこなくて、ウルスラは首を傾げた。

 それと同時に、彼女の無邪気な声をまた思い出す。


 ――お気に入りの絵画なのですね。


 ぐるりと部屋の中を見回せば、そんなリヒャルトの描いた絵だけが何もない部屋の中にぽつんとある。

 その異質さに、異物感に、違和感に、ウルスラは胃から込み上げてきた何かを押さえつけるように口を押えた。


 この何もない部屋は、レナードがウルスラへくれた気づかいだ。

 今まで自分の部屋はおろか、服すら自分の好みで選べなかったウルスラへの贈り物。これからウルスラが自分の手で自分の好きなものを増やしてほしいとレナードが思ってくれたからこそ、何もないのだ。


 そこに、リヒャルトの描いた絵だけがある。

 額縁のおかげでかろうじて絵画として見栄え良く成立しているスミレの絵。

 まるで自分とリヒャルトの関係性そのもののような絵。


 それだけが、ぽつんと。


 その様子はまるで、何も持てず、何も選べなかったウルスラが、リヒャルトのことだけは自分で選んで大切に扱ってきたようだった。

 絵だけをここに持ってきたのは、自分がリヒャルトを忘れられず、執着しているからのように見えるではないか。


 嫌な気持ちになって、壁にかけられたスミレの絵を取り上げる。

 絵を裏返して額縁の裏板を外すと、厚み調整材代わりの妄想ノートが最後に見たままの姿で収まっていてため息が出た。


 床に座ってぱらぱらとノートをめくって中身を確認すると、ウルスラの胸に痛みが走った。


 ウルスラはそれをずっと〝きゅん〟だと思っていた。

 甘酸っぱくて美しい、時には残酷でもあるラブストーリーの根幹にあるものこそが〝きゅん〟である。心臓を突き刺さんばかりに鋭いからこそ心を揺さぶるのだと。


 だけどそれは違うのかもしれない。


 ウルスラがノートに書き記した胸きゅんには、その隣に必ずそれを見つけたときの状況が書いてあった。

 たとえば昼に思い出した、王弟殿下からもらったヘアピンをリヒャルトが投げ捨てた時に見つけた男女から感じた〝きゅん〟のように、ウルスラが〝きゅん〟を見つける時には必ずリヒャルトがいた。


 リヒャルトの行いがウルスラを悩ませた時、憂鬱にさせた時、彼がウルスラをないがしろにした時、意見を聞いてもらえなかった時――そういう時に必ず〝きゅん〟が見つかった。

 胸が痛いほどの〝きゅん〟が。


 ウルスラは唐突に理解した。

 胸に走るきゅんの痛みは、ただ本当に、痛かったから走った心の悲鳴だったのかもしれないと。


 リヒャルトに理不尽なことをされた時に、違う人や物に目を向けていたのは、自分とは関係ないものを視界に入れて、〝理不尽〟以外の感情で胸を埋めたかったからなのだろう。

 少しでも自分を慰めたかったのかもしれない。現実逃避をしたかったのだ。


 ただ、胸がきゅんとするシチュエーションや、それを見て物語を考えたりするのは本当に好きなことなのだと思う。でなければ逃避先にはなりえないから。


 だけど好きなはずのきゅんを思い出して心臓が冷えた感覚がしたり、本当に体調不良になるほど血圧が乱高下していたのは、同時に〝嫌なこと〟も思い出していたからだろう。

 帰還兵が大きな音や、剣を思わせる光の反射に取り乱すようなものだ。


 レナードの気づかいに包まれた部屋を見た今ならわかる。

 リヒャルトや、リヒャルトと関わることを強制してきた両親や周囲の環境のせいで、ウルスラは妄想に逃げ込むしかなかった。


 ウルスラの一日のほとんど全ての時間は、隣にリヒャルトがいてもいなくても、彼のために使われていた。

 自分にとって妄想は逃避先だったのだ。

 些細な〝好き〟を逃避先にすることで自分を保っていたウルスラには、ウルスラを含めて周囲の人間をキャラクター化しなくては息をすることすら難しかった。


 あんなにも親切だったハンナたちを疑って、物語の悪役のように扱おうとしたのも心の防衛反応なのかもしれない。

 だって少しでも触れ合えば分かったはずだ。

 ハンナたちはずっと優しかった。気づかいをくれた。そんな彼女たちが人に酷いことをするわけがないと。


 手に持ったノートがグシャッと音を立てた。


 この妄想ノートは、そういうハンナたちのような人の親切や、人の個性や事情を顧みずに、ある意味おもちゃにして遊んだ記録の集まりだ。

 自分の心を守るためとはいえ、ノートを手に入れてからずっと他者の人格を否定し、ないがしろにしてきた歴史が記されている。


 これはウルスラの、本当の意味での黒歴史だ。


 「燃やそう」


 ウルスラは呟いて立ち上がった。


 気づいたからには反省し、これ以上誰のことも現実逃避には使わないようにしなければ。

 ウルスラの真っ黒な感情が詰まったこのノートは、今ここで、自分の手で、炎によって浄化する。


 火を上げ続ける暖炉に、ウルスラは迷いなくノートを突っ込んだ。

 幸いなことに炎の勢いは鈍ることなく、黒歴史はよく燃えた。

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