第13話 まさか!
何もない部屋で呟いたウルスラの声は、思ったよりも大きく響いたようだ。
「バウアー伯爵家のお嬢様が、何か?」と、ハンナがウルスラの呟きを聞き返した。
「レナードはカタリナ嬢と相思相愛で、けれど殿下によってその仲を引き裂かれてしまった〝悲劇の英雄〟だと王都で聞いたわ」
首を傾げて問いかけの答えを探すハンナへ、ウルスラは「だから……」と続けた。
「レナードはその〝悲劇〟の一端を担ったわたくしのことを厭い、行き場のない感情を発散させるためにここへ連れてきたのかと思っていたわ」
「ま、まさか!」
ウルスラの言葉を聞いたハンナが大慌てで否定して、さらに首を横に振ってくる。
部屋には遮るものがないから、彼女の否定はウルスラの耳に大きく響いた。
「旦那様はお顔もよろしいしあの通りお強い方でしたが、バウアー伯爵家で雇われていた時には平民でした。カタリナお嬢様はこう言ってはなんですけれど、上昇志向の高い方で、我々のような平民になど鼻も引っかけやしませんでしたよ」
「まあ、それは……」
少ししか顔を合わせたことはないけれど、確かにカタリナ嬢にはそういう気質があったように思う。
ウルスラは侯爵家の人間だったからか、何かをされたということもない。ただし彼女が子爵家の令嬢や男爵家の次男、三男辺りと話すときには、鼻の先が常に上を向いていたことを思い出す。
そうしたカタリナ嬢の態度をみれば、いわんや平民をや。
「旦那様の奥様への愛情と執着心は、西部の者なら誰でも知っています」
「愛情と、執着心……?」
ウルスラを買った時や、婚姻届けを提出した時、王都からここに来るまでの間で見たレナードの態度から、そういう単語を見つけ出すことはできなかったが。
「むしろ王都の話の方に驚いております。旦那様が悲劇の英雄? むしろ旦那様にとっては長年狙っていた獲物が群れからはぐれたのを見つけた狩人みたいな気分だったでしょうね。それよりも殿下との婚約破棄は奥様にとっての悲劇でしかありませんでしょ?」
「そうかしら?」
リヒャルトとの婚約破棄に関しては、確かに周囲の期待は大きかったし、彼らにとっては……特に家の浮沈をリヒャルトの婿入りに懸けていた両親にとっては悲劇だっただろう。だけどウルスラとしてはほっとした気持ちの方が強い。
「だってお小さい頃からの婚約者を盗られてしまって、しかもずっと前に少し面倒を見ただけの使用人の息子に執着されて、婚約をすっ飛ばして結婚ですよ? 殿下を愛していたら、あたしなら泣き暮らしますけど……」
ハンナはそう言ってウルスラを気づかうけれど、リヒャルトへの愛など全くない。
婚約破棄された、よし! 修道院行こう! すぐ行こう! さらば! と実に前向きに準備をしていたところだったのだ。
ただそれを言えばリヒャルトは確実に気分を害するだろうし、その親である国王夫妻も機嫌を悪くするだろうことはこれまでの付き合いで嫌というほど知っていたので、悲痛な顔を作って慎んでいた。慣れたものである。
「リヒャルトに愛だなんて、まさかー!」と笑い飛ばしたい今も、その習慣がウルスラの顔面を沈痛な表情へと作りかえる。
「でも、できれば奥様には旦那様を嫌わないであげてほしいんです」
斜め下を見て長年の習慣と戦うウルスラを見て、ハンナが悲壮感に満ちた表情で口を開いた。
「だってはたから見てると本当に涙ぐましいというか、これで奥様に嫌われたら旦那様は背骨を引っこ抜かれるようなもんですから、立てなくなるどころか死んじゃうかもしれませんし……」
侍女服の腰についた飾りのリボンを手でいじりながら、ハンナがべそ眉毛のまま続けた。
「こんな脅迫みたいなことを言うもんじゃないってのはわかってますし、奥様にとっちゃあ理不尽かもしれませんけど……。でもあたしらは長年の恋煩いを知っているぶん、旦那様のお気持ちを裏切れませんで……」
だんだんハンナの言葉に平民の言葉が混じり始めるけれど、ウルスラは気にならなかった。
むしろその言葉を通じてウルスラを気づかうハンナの心が率直に感じ取れたから、彼女が語るレナードの驚くような一面をすんなり「そうなのね」と理解できた。
「そう、レナードはわたくしを好きなのね……」
気付かなかったわ……とこぼしたウルスラの言葉に、ハンナが目を見開いてからぐるりと部屋を見回して、ぽんと手を打った。
そして「もう一ヶ所、ご覧になっていただきたい場所がございます!」といってウルスラを促した。