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第1話 秘密

 ウルスラは今日、書類上の妻としてレナードに買われた。


 昨日までは修道院へ世話になろうとしていたのに……と、ウルスラは急展開に追いつかない頭を振る。

 そして今日限りで去ることになる自分の部屋を、どこかぼんやりとした気持ちで眺めた。


 高価な物であふれる華やかな部屋だ。人によってはさすがロイター侯爵家の長女であり、二十二歳という年頃の娘らしい部屋だと言うかもしれない。

 けれどウルスラはこの部屋にある物も、生まれ育った屋敷にも愛情はなかった。……家族にすら。


 開け放った窓から差し込む昼の光が、ウルスラの銀色の髪とレナードの黒髪に差す。


 「お嬢様、あきらめてください」


 レナードがヘーゼルグリーンの険しい目をウルスラへ向けた。

 ウルスラがこの結婚に納得していないと思ったのだろう。


 確かにウルスラは、本音を言えば今でも修道院へ逃げたかった。

 けれどバジリスクを討伐した英雄相手に逃げ切れるはずがないこともわかっている。


 ため息をついてから、ウルスラはあらためて部屋の中を見回した。


 領地へ持っていきたいものをレナードに聞かれたからだが、特に何も……と視線をさ迷わせ、机の近くの壁に掛けられた花の絵を見てウルスラはハッと目を見開いた。


 一般的なノートの寸法より少し大きい油絵だ。

 絵のサイズに対してやや大きめな額縁が、項垂れて咲くスミレを見栄えよく見せている。


 めずらしく顔を強張らせたウルスラに気づき、レナードがウルスラの視線をたどって絵に近寄った。


 「ロイター侯爵家のお嬢様の部屋にある絵にしては、ずいぶんと……素朴ですね」


 レナードが言葉を選びながら呟いて、絵の額縁に手をかけた。


 「触らないで!」


 反射的に叫んでしまってから、ウルスラはハッと手で口元を隠す。

 突然の大声に驚いて手を止めたレナードへ、ウルスラは一度大きく深呼吸してからもつれそうになる舌を動かして謝った。


 「お、大きな声を出してごめんなさい。でも、それはリヒャルト殿下がわたくしに描いてくださったもので、わたくしの、い、一番大切なものなの。その……わたくし以外の人に、触られたくないのよ……」


 「……元婚約者の描いた絵が、一番大切なもの、ですか」


 レナードの冷たい声にウルスラは泣きそうになりながら、それでもしっかりとうなずいた。


 「それは……わたくしたち臣民が敬うべき王族である第二王子殿下の描いた絵画だし、それに……五歳で婚約してから今までの間、そのスミレの絵だけが殿下がわたくしにくださった唯一のプレゼントなの……」


 「――その元婚約者の思い出が詰まった絵を、これから夫になる俺には触らせたくない……と」


 深い湖の水よりもさらに暗く冷たい声で言って、レナードが壁にかかった絵を掴む。


 額縁の角が壁に当たり、ゴツンと音がした。

 それを聞いたウルスラの足は震え、心臓が不規則に暴れ、顔からはどんどん血の気が失せていく。


 「本当にこの絵が大切なんですね。そうか……なるほど、こんな絵が」


 額縁をぞんざいに持ってしげしげと眺めるレナードの視線に、ウルスラは青ざめた唇を震わせた。


 「レナード、お願いだから……」


 「お二人の婚約は破棄となったのですから、いつまでも元婚約者の絵を持っているのは変な話ですよ。殿下も迷惑なのでは? 俺が王家へ返還する手続きをしましょうか」


 「そっ、そんなの駄目よ!」


 思わず前のめりになって叫ぶウルスラに、レナードは唇を歪めた。


 「お嬢様がそんなにこの絵を返すのがお嫌なら、この部屋に置いていってもいいですが……金欠に喘ぐロイター侯爵家へ置いていけば、最悪売り払われるかもしれませんね」


 図星を突かれてウルスラが黙る。

 もともと没落寸前だったロイター侯爵家には金がない。王族であるリヒャルトがロイター家へ婿入りすることに全財産を懸けていて、借金すらある。

 ウルスラ有責の婚約破棄によって家はさらに傾いてしまった。


 王族の物というのは人気があるから、もしも欲しがる人がいれば、父はウルスラのせいにして絵を売ってしまうかもしれない。

 すでに汚名まみれの娘に王子の描いた絵を売ったという悪評が加わっても、両親はもう気にしないだろう。


 ――自分以外の人の手に絵が渡る。

 その最悪の事態を想像して、ウルスラは足から崩れ落ちそうになるのを必死でこらえる。


 「駄目よ……そんな……お願いよレナード」


 震える手を胸の前で組んで、神に祈るようにレナードへと懇願する。


 「……では俺がロイター侯爵からこの絵を買いましょう。そして俺が領へ持っていき、屋敷で管理します」


 「どうして! その絵はわたくしが殿下からいただいた……」


 「それはそうかもしれませまんが」


 と、レナードはウルスラの声を遮って続けた。


 「ロイター家にある物を持っていくなら金を払えと、あなたの父親が言ったのですよ。金を払えばどんなものでも持っていっていいと。だからお嬢様は俺のものになった」


 裸で連れ出すわけにもいかないので、今お嬢様が身に着けているドレスや靴にも金を払いました。


 ため息のように続けられた言葉に絶句したウルスラを一瞥し、レナードは絵を持ったまま部屋を出ていってしまった。

 おそらく絵の買い取りを交渉に行ったのだろう。


 娘を物としか見ていない父親のあんまりな言葉にも動揺したが、レナードに絵を持っていかれてしまったことにそれ以上の動揺と不安、恐怖を覚えてウルスラは床に膝をついた。


 「あ、ああ……あの絵は……」


 青を通り越して濃い紫色になるほど血の気の引いた唇を震わせ、ウルスラは声にならない声で呟いた。


 ――あの絵には、〝胸きゅんシチュエーションを書き綴ったウルスラの妄想ノート〟が一冊隠されている。


 王子の描いた絵画に触れる度胸のある人間はこの家にはいなかったから、額縁の中は絶好の隠し場所だったのだ。


 日常で胸きゅんな出来事に遭遇した時にこっそりと絵画からノートを取り出し、そっと書き足してまた隠す。

 今までバレることなくひっそりと行っていたそれは、つらく厳しかったリヒャルトとの婚約期間の唯一の癒しだった。


 一日のうち大半を妄想で意識を飛ばしていたウルスラにとって、ノートはほとんど人生そのものであり、継ぎ足しつつじっくりコトコト煮込んで熟成されたウルスラの恥部でもある。


 そんな秘密を隠した絵画を王家に返還するなどもってのほかだ。

 リヒャルトに知られたら何を言われるかわからないし、王城内の誰に見られても〝恥〟以外の言葉が見つからない。


 他人の手に渡るなどとんでもない!

 ばれたら死ねる。

 婚約破棄より恥ずかしい。


 もちろんレナードにだって見つかるわけにはいかない。


 さっきはとてもひやひやした。

 どうして口調は丁寧なのに、あんなに雑に絵を扱うのだレナードよ。

 額縁の裏が外れてノートがぽろっとしたらと思ったら、気が気でなかった。


 「あああああ! 領地へ行くまでの間になんとか回収できればいいのだけれど……!」


 もしも道中で回収できなかったとしたら、屋敷で隙をみて絵ごと燃やす。

 額縁は木製だし絵は油絵だ。暖炉にでも突っ込んだら勢い良く燃えてくれるだろう。


 ウルスラは固く決意した。

 

 黒歴史、燃やす。

 

 絶対に燃やす。


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