十.追想 ~喜びをくれた花~ ―20
「……ああ。また来るよ。貴女に会うために、ここに来る」
ぽろぽろと、梔子の頬を涙が零れ落ちていった。
やがて彼女は涙を拭き、紅月の告白への返事をくれた。
「私も……同じ気持ちです。あなたが、好きです。紅月さん」
その言葉を聞いた途端。
全身が歓喜と、それから安堵に包まれ、そして、
「……あ」
「え……?」
ぐらりと両足が傾いだ。
危ない、と梔子に警告する間もなく、
「――……っ!?」
梔子を巻き込むようにして、前のめりに倒れてしまった。
長い時間立ち続けて、足は今度こそ限界を迎えていたらしい。
だが、そんなことよりも巻き添えにして転ばせてしまった彼女のことが気になった。
「すまない、梔子……! 怪我は……?」
「私は大丈夫です。それより、紅月さんは……」
はたと、お互いに動きが止まる。
……あまりにも、近い。
梔子もおそらく紅月と同じようなことを考えたのか、彼女の頬が急速に赤みがかっていく。
堪えることは、できなかった。
彼女の顔にかかっていた銀色の髪の一房をよけ、そのまま同じ指先で頬を撫でる。
そうして、薄く開いた彼女の唇に、自分の唇を重ねた。
それが、その先もずっと、永遠に忘れることはない――梔子との、初めての口づけだった。
それから、退院までの日々はあっという間に過ぎていった。
訓練は以前にも増して順調に進んだ。
車椅子を使わずに済むようになったのは、梔子に想いを告げた日からまもなくのことだった。
さらに数日経つと、やがて杖も要らなくなり、そして――
「いやあ、ついにこの日が来たね。退院おめでとう、紅月くん!」
身支度を済ませた紅月は、病院の玄関前に立っていた。
近くには、一足早く春の訪れを知らせるように、雪を被りながらも梅の木が花を咲かせている。
二月。
暦の上では春でも、まだまだ寒さの厳しい季節だ。
「今までお世話になりました、先生。皆さんも。このご恩は忘れません」
玄関先には、智行や数名の看護師達が見送りに出てきてくれていた。
「気をつけてね、紅月くん。今の時期は地面が凍っているところもあるし、滑って怪我して、またここに戻ってこないようにね」
看護師の言葉に、あたりには温かな笑い声が上がる。
すると、看護師の一人が智行に声をかけた。
「そういえば、先生。あの子はどうしたの? 今日は学校、午前中で終わりだって言ってたじゃない? 紅月くんがもう出て行っちゃったって聞いたら、あの子すごくがっかりするんじゃないかしら」
すると、それは智行も気になっていたようで、懐中から時計を取り出している。
「んー、そうなんだよね。そろそろ来てくれてもいいはずなんだけど……ああ、来た来た! おーい、梔子!」
ぱっと明るい表情をして手を振り始めた智行に、紅月は後ろを振り返った。
すると、路の向こうに息を切らしながら走ってくる梔子の姿が見える。
ひどく焦った表情を浮かべていた梔子だったが、紅月と視線が重なると、彼女は大きく目を見開く。
それから一気に深い安堵の表情を見せた。
「ま、間に合いました……」
膝に手を当て、肩で息をしながら、梔子はほっとしたように言う。
よほど急いで走ってきたのか、この寒さの中、彼女の頬や耳は赤くなっていた。
思わず梔子が走ってきた路に視線を向ける。
昨日降った雪が、路にはまだ残っていた。
心配になって、紅月は思わず咎めるような声で言わずにはいられない。
「梔子。この雪の中を走ったりして……。転んで怪我をしたら危ないだろう」
「ごめんなさい。でも、遅れるのは絶対に嫌だったので」
しばらくして、呼吸が整ったのか梔子は顔を上げた。
目が合うと、彼女はほのかに微笑みながら言った。
「退院おめでとうございます、紅月さん」
「……ああ。貴女には、本当に助けられたね」
「いいえ。私は、大したことは何も……」
何となくいつものように梔子と話しづらかったのは、まわりの視線のせいだった。
ちらと、智行や看護師達の方を見る。
皆、何かを察したような、いやに温かい笑みを浮かべていた。
「…………」
思わず閉口してしまうと、智行が「ああ、そうだ」と突然声を上げる。
「汽車の出る時間までは、まだかなり余裕があるんだろう? せっかくだ、二人で街を見てきたらどうだい?」
「先生……?」
「え……?」
梔子と同じように戸惑っていると、智行は続けて言った。
「梔子。手伝いのことなら気にしなくていい。いつもお前には助けられてばかりだからね。今日の午後くらい、好きに出かけておいで」
「い、いいの……? 父さま」
「ああ、いいよ。……さて。じゃあ、紅月くん」
すると智行は紅月の隣まで近づいてきた。
ぽん、と肩を叩いてきたかと思うと、紅月にしか聞こえないような小さな声で言う。
「梔子のこと、頼んだよ。……でも、またこの子を泣かせたら、今度こそは容赦しないからね」




