十.追想 ~喜びをくれた花~ ―19
(……嫌だ)
握りしめた拳が、震えていた。
身体が熱い。熱くて、熱くてたまらない。
このままでいるなど許されない。
今すぐに梔子を追いかけろと、全身が叫んでいるようだった。
(立て……。立つんだ……!)
床を這い、どうにか壁までたどり着く。
壁を支えにしながら、紅月は必死に足に力を入れ、立ち上がった。
よろめきながらも病室を出て、あたりを見回す。
見える範囲にはすでに梔子の姿は見当たらなくなっていた。
もう、病院を出て帰ってしまったのか。
それでも、そんなことは関係ない。
今はただ、彼女を追うことしか考えられなかった。
ふらつき、転びながら歩く紅月を見かけて、近くを歩いていた患者が話しかけてくる。
「あんた、大丈夫か!? 今、誰か呼んでくるからそこで待ってな」
「……平気だ。それより、梔子を……彼女の姿を、見ていないか? 早く……追いかけないと」
「梔子ちゃんか? あの子ならついさっき、向こうに走っていくのを見たが……って、だからあんた、少し待てって」
向こう。
そう言って患者が指さしたのは、病院の外へ向かう裏口のある方角だった。
患者が止めてくるのも構わず、紅月は壁に手をつき、身をもたせかけながらも歩いていく。
足の痛みは急速に増していった。
はじめは疼きにも似た鈍痛だったのが、次第に骨がひしゃげるような激痛に変わっていく。
それでも。
……立ち止まるな。
痛みなど知ったことではない。
ただ、ひたすらに歩くことだけを考え続けて――
裏口の扉までたどり着いたところで、もう限界だった。
床の上に転んだまま強引に扉をこじ開け、外に這いずり出ていく。
扉が開く音を聞きつけたのかもしれない。
近くから、やっと梔子の声が聞こえた。
「紅月さん……?」
ようやく、彼女に追いついた。
梔子は紅月を見るなり、血相を変えて駆け寄ってくる。
「紅月さん……! どうして……まさか、ここまで歩いて……? 待っていてください。今、助けを呼んできますから――」
「いい。行かないでくれ。私は……貴女と話すためにここまで来たんだ」
「え……?」
誰かを呼びに走り去ろうとする梔子を、慌てて彼女の腕を掴んで引き留めた。
「……私のせい、なんだろう」
梔子の目には、まだ涙がたまっていた。
また、紅月が泣かせたのだ。
その理由がわからないことがもどかしく、もし知らないうちに彼女を傷つけていたのかもしれないと思うと、自分を呪いたくなってくる。
「教えてくれ。なぜ、貴女は泣いているんだ? 私は、貴女に何を……」
「違います。本当に、紅月さんのせいではないのです。ただ、私が……私が、最低なことばかり考えているから」
「最低……? それは、どういう――」
「……喜べないのです」
はらはらと、梔子は涙を零しながら言った。
「紅月さんが歩けるようになって、退院すること……嬉しいことのはずなのに、喜ばなくてはいけないのに……私はどうしても、喜べなくて」
「…………」
「仏蘭西に留学なさると聞いた時も、そうです。紅月さんのこと、応援したいと思いました。なのに、私は……口ではそう言いながら、本当は嫌だと思ってしまっている。あなたが、ずっと遠くに行ってしまわれることが……遠くにいる方のように感じてしまうのが、嫌で、つらくて……!」
血を吐くように痛切に答えた梔子の姿に、紅月はやっと気がついた。
そして、なぜ今の今まで思い当たらなかったのだろうと、自分で自分が信じられなかった。
……退院すれば、紅月はこの病院を去り、帝都へ帰る。
そうなれば、梔子とはもう会って話すこともなくなってしまうのだ。
別れの時は、もう間近に迫ってきていたというのに。
「梔子。貴女は……」
「……ごめんなさい、紅月さん。次にお会いするのは……あなたが退院なさる時にさせてください。これ以上、あなたとお話ししてしまったら、私は……もう耐えられそうにないのです」
梔子は立ち上がった。
今度こそ、助けを呼びに去っていってしまうのだろう。
ここで彼女を止めなければ、もう二度と――
迷いなど、なかった。
考えるよりもずっと早く、紅月は、
「――待ってくれ!」
そう、梔子の背に向かって叫んでいた。
病院の中に戻る扉の前で、梔子は止まった。
(もう一度だ。……もう一度、立て……!)
地面に投げ出していた足に力を込める。
痛みはもう感じなかった。
感じる余裕などないほど、紅月は必死だった。
無我夢中で彼女の方へと歩いて、そして、
「――……!?」
腕の中で、梔子がびくりと肩を震わせるのがわかった。
気づけば紅月は、彼女を後ろから思いきり抱きしめていた。
「……紅月、さん……?」
「私だって同じだ。私も、貴女と別れるのは……嫌だ」
今、彼女に告げることに、打ち明けることに、ためらいなどない。
ひそかに抱え続けていた想いを、声に乗せた。
「――貴女が好きだ。梔子」
「…………!」
「たとえここを出たとしても……私は、これからもずっと、貴女と会って話したい。だからもし、貴女も同じ気持ちでいてくれたのなら……」
ゆっくりと、静かに。
こわばっていた梔子の身体から、力が抜けていくのがわかった。
彼女がこちらに向き直ろうとしてくれているのを感じて、紅月はわずかに腕の力を緩める。
梔子は涙をいっぱいにためた目で、紅月をまっすぐに見上げてきた。
「……お別れ、しなくても……よいのですか?」
震えた声で、彼女は言った。
「私は……これからも、紅月さんと……あなたとお会いしてもよいのですか……?」




