十.追想 ~喜びをくれた花~ ―18
「これが……仏蘭西の言葉なのですね」
梔子は興味津々といった様子で、辞書を覗き込んでくる。
この国のものとはまったく異なる形の文字が、彼女の目には物珍しく映ったようだ。
「紅月さんは、もうこんなに仏蘭西の言葉を話せるのですか?」
「いや、まったく。一応、基本的な文字や読み方なんかは教えてもらったが、正直合っているかどうかは自信がないな」
すると、梔子は帳面に書き写してあった文章を指さした。
仏蘭西の文章の上に振ってあるふりがなを、彼女はつっかえながらも読み上げる。
「しる……ぶ、ぷれ……?」
「S'il vous plaît……お願いします、という意味らしい。発音が難しくてね。本当に向こうで通じるのか、今から心配で仕方ないよ」
梔子は食い入るようにしてノートを見つめていたが、やがて思い立ったように顔を上げた。
それから、彼女は紅月に向かって、尋ねるように言ってくる。
「Bonjour. ……Vous allez bien?」
「…………」
梔子は、緊張したような面持ちで紅月を見つめてきた。
紅月の答えを待っているらしい彼女の姿は、見ているだけで温かな気持ちになる。
「……Oui, ça va, et toi ?」
はたから聞いていれば、それはあまりにたどたどしい会話だっただろう。
仏蘭西の人々が聞いたら、きっと笑ってしまうに違いない。
それでも。
……楽しい。
お互いに顔を見合わせて、しばらくの間、声を立てて笑わずにはいられなかった。
「上手だね、梔子は。練習相手になってくれるのかな」
「私でよければ、ですけど……。次は、どれを練習しますか?」
梔子と話していると、いつも時が過ぎるのを忘れるくらいだった。
この時間がいつまでも続けばいい。
そんなことを、いつも考えてしまうくらいに。
……けれど、そんな時間にもやがて終わりは訪れる。
日が落ちて暗くなってきた頃、時計を見た彼女はあっと声を上げる。
「お邪魔しました、紅月さん。そろそろ、帰りますね」
「ああ。気をつけて。来てくれて嬉しかった」
梔子は普段、ちょうど退勤する看護師と一緒に病院を出て、馬車を使って家に帰っているらしい。
智行と一緒に帰る時以外は、梔子が病院を出る時間は決まっていた。
扉の前に立ち、出て行こうとした梔子は、もう一度紅月の方を振り返って言った。
「あの……勉強、大変でしょうけれど……無理はしないで、頑張ってください。応援してますね」
「…………」
その時に見せた、彼女の表情に。
「それでは、失礼します」
「待ってくれ。梔子」
気づけば紅月は、とっさに梔子を呼び止めていた。
なぜ彼女を止めてしまったのか、理由は自分でもわかっている。
このところずっと、紅月は気がかりで仕方がなかった。
最近の梔子は、ふとした瞬間に、どこか苦しげな表情をする。
紅月はこれまで、数え切れないほど梔子に助けてもらった。彼女の世話になりっぱなしだ。
だから、何か、彼女に困っていることがあるのなら。
そしてそれが、もし紅月に助けられるようなことならば、今度は紅月が彼女の力になりたいと思ったのだ。
梔子は、わずかに首を傾げて立ち止まり、紅月を見つめている。
意を決して、紅月は切り出した。
「的外れなことを言っていたら、すまない。だがどうしても、気にかかってしまったから……。梔子、貴女は何か、悩んでいることでもあるのかな」
「…………!」
「近頃の貴女が、時々、つらそうな顔をしているように見えたんだ。何か、困っていることがあるのなら……もしよければ、教えてくれないか。私はもうずっと貴女に助けてもらってばかりだから……私に力になれることなら、貴女の助けになりたいんだ」
梔子からの答えはなかった。
ただ、彼女は視線を彷徨わせ、なぜだか余計に苦しそうな顔をする。
やがて彼女は、眉尻を下げたまま微笑み、首を横に振って言った。
それは、はた目にも無理をしているのがはっきりとわかる微笑み方だった。
「……ありがとうございます。でも、大丈夫です。何も困っていることはありませんから」
「梔子。だが、その顔は……とても大丈夫そうには見えないよ。もしかして、私のせいかな。私が何か、貴女の気に障るようなことを言ったとか――」
「いいえ、それは違います!」
そう、彼女がいつになく強い口調で言い放った、その瞬間。
「梔子……?」
梔子の頬を、ひとすじ、光るものが流れていった。
彼女は急いで涙を拭う。
それから、消え入りそうな声で、
「……紅月さんのせいではありません。私が……私が、悪いんです」
そう言って、顔を俯けたまま病室を走り去っていってしまう。
「梔子、待っ――」
足が使えないことも忘れて、紅月はとっさに追いかけようとした。
けれど急に力を入れたことで、両足に突き抜けるような痛みが走る。
病室を出るよりも早く、紅月は床に崩れ落ちてしまった。
床の上に這いつくばり、悔しさに歯を食いしばりながら、紅月は梔子が出て行った病室の扉を見つめた。
……今ほど自分を情けなく、呪わしく思ったことは一度もない。
何が、助ける、だ。
紅月は今、泣いている彼女を追いかけることすらできなかったくせに――




