表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
96/161

十.追想 ~喜びをくれた花~ ―17


「ねえ紅月くん。よかったら、その絵は梔子にあげてやってくれないかな」

「と、父さま……?」


智行の提案に、梔子が驚いた声を上げる。


「梔子はずいぶんその絵が気に入ったみたいなんだ。だめかな、紅月くん」

「それは、構いませんが……。ですがこれは、ごく短時間で描いた雑な絵で」

「何を言っているんだい。僕達の目には見事な絵なんだよ。紅月くんにとっては不十分な出来だろうとね」


少しの間、迷った。


もう一度、自分が描いた絵を見る。

やはり、以前に描いていた絵の出来にはほど遠い、未熟な絵だ。


それでも、今までに経験のないくらい没入して、心のままに描くことのできた絵だった。


……何より、ひそかに想う彼女を、絵に描くことを許された。

きっと紅月は、これから先ずっと、この絵のことを忘れることはないだろう。


もし、この絵を渡すことで、梔子が少しでも喜んでくれるのなら――


紅月はもう一度鉛筆を手に取った。

絵の下端に、今日の日付を記す。


そして。


――喜びをくれた花。


そう、画題を書き記した。


(……梔子。貴女は私にとって、喜びをくれた花だった)


言葉にすることのできない想いを、そこにすべて込めるように。

そうして、スケッチブックからその絵の描かれた頁を破り取る。


「こんな絵で、喜んでもらえるのなら……だが」


椅子から立って歩いてきた梔子が、そっと紅月の手から絵を受け取る。


するとふいに思い出したのは、いつか夕弦が照れくさそうに言っていた言葉だった。


夕弦を描いた絵を渡そうとした時、彼はこう言っていたのだ。


――お前がくれた絵は全部大事にとっておいてあるが、自分で自分の絵を持っているのは少し気恥ずかしいからな。


その時のことが思い出されて、つい梔子から絵を取り戻そうとしてしまう。


「……それとも、やはり自分で自分の絵を持っているというのは、気恥ずかしいものなのかな。だったら、もっと別のちゃんとした絵を描くが――」

「えっ? いいえ……! 私は、この絵がほしいです。もし、くださるのでしたら」


そう言って、梔子は大事そうに絵を持ち、微笑んだ。


「……すごく、嬉しいです。この絵は、ずっと……大切にしますね」




それからも、退院に向けた日々は続いた。


塾長が再び紅月のもとを訪れてきたのは、年始を過ぎ、あたりにうっすらと雪の積もった日のことだった。


これからも絵を描き続けることを伝え、それから巴里への留学を承諾すると、塾長は大いに喜んでくれた。


「まったく、紅月。お前には冷や冷やさせられたものじゃ。して、退院の時期はいつ頃になるのじゃ? まあ家のこともあるじゃろうし、お前は一年も絵からは離れていたからの。退院後すぐに留学というわけにはいかんじゃろうが、少しずつ考えていかねばならんな」


智行の話によると、順調に訓練を進めていけば、退院の時期は来月になると聞いていた。


訓練の成果は徐々に現れてきていた。

日々、歩ける距離が長くなり、痛みも弱くなっていく。


訓練の合間に、塾長が持ってきてくれた辞書を使い、仏蘭西の言葉の勉強も始めた。


S’il vous(お願いします) plaît…… Merci(どうもありがとう)beaucoup……」


異国の言葉は、想像以上にこの国の言葉とはかけ離れたものだった。


どうにか基本の文字を覚え、よく使う言い回しを発音できるようになるだけでも一苦労だ。


巴里に行ったところで、絵の修業をするよりも前に、日常会話に苦心することになるだろう。それは今からでも、充分に想像のつく未来だった。


(先が思いやられるな……)


けれど不思議と、気分は明るかった。


今ならば、この先どんなことが待ち受けていたとしても、きっと乗り越えてゆける。

そんな前向きな気持ちにすらなっているほどだったのだから。


そうして辞書を片手に、仏蘭西の文章を紙に書き写し、それを発音する練習を続けていると……


外から扉を叩く音がして、紅月は顔を上げた。


葉室医院で過ごしたこの数か月で、紅月はいつしか、扉の叩き方から誰が来たかを察することができるようになっていた。


少し遠慮がちなこの叩き方をするのは、彼女しか考えられない。


「梔子?」

「……こんにちは。もしかして、勉強中でしたか?」


紅月の手元に辞書や帳面があったのを見て、梔子が尋ねてくる。


控えめで、いつも他人に気を遣っている場面の多い彼女のことだ。

このままでは、邪魔になったらいけないからと、せっかく来てくれたのにすぐにいなくなってしまいかねない。


だから急いで紅月は声を上げた。


「待った、梔子。ちょうど、区切りのついたところだったんだ。だから……行かなくていいよ」

「……お邪魔に、なりませんか?」

「ああ」


すると梔子はためらいがちな様子を見せながらも、部屋に入ってきてくれた。


お互いに何か約束を取り交わしたわけではない。

けれどそれでも、学校の帰りに病院に寄る彼女と、毎日こうして話すのがいつしか暗黙の約束のようになっていた。


話す内容は、いつも他愛のないことだ。

梔子の学校のこと、近頃の病院での出来事……


ふと、梔子は紅月が使っていた辞書に視線を向けた。


辞書の頁はすでに、鉛筆で記した下線や書き込みだらけだ。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ