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十.追想 ~喜びをくれた花~ ―16


「……いいのかい? しばらくの間、貴女にじっとしていてもらわなくてはならなくなるし、気後れするのであれば断ってくれても」

「大丈夫です。あの……本当に、嬉しかったんです。でも、誰かに自分を描いてもらうことなんてなかったので。それで、あの……私は、どうすればいいのでしょうか? モデル、というのは、何をすれば……」


恥ずかしがりながらも意気込んでくれる梔子に、自然と笑みが零れた。

こんな時まで、彼女は一生懸命だ。

想いが溢れそうになるのを抑え、紅月は言った。


「何もしなくていいよ。ただ、そこに座っていてくれれば」

「座っている……だけで、いいのですか?」

「ああ、それでいい。……ありがとう、梔子。私の願いを聞いてくれて」


そうして、紅月は色鉛筆の先端を紙面にあてた。

昼下がりの穏やかな日差しの中、椅子に座った梔子に視線を向ける。


……不思議だ、と思う。

今、紅月は以前とほぼ同じように……否、むしろ、もしかしたら怪我をする前よりもすんなりと、心を乗せて描くことができている。


一時は鉛筆を持つことすら苦しく、億劫(おっくう)で、絵を描くこともできなくなったほどなのに、本当に不思議だ。


紙面に鉛筆を走らせながら、紅月は徐々に、他の何もかもを忘れて絵を描くことに没頭し続けた。


やがて紙面には、梔子の花に囲まれて優しく微笑む、銀色の髪の少女が描き出されていく。


……できた。


色鉛筆を置き、顔を上げて。

その瞬間、紅月は思わずびくりと肩が震えるほどに驚く。


「あ、僕のことは気にしないでくれていいよ。続きをどうぞ」

「せ、先生……?」


いつのまに入ってきていたのか、病室には智行の姿があった。


智行は部屋の隅に椅子を置き、紅月にじっと視線を送り続けている。

そして今さらながらに、窓の外がもうすっかり真っ暗になっていることに気がついた。


「……! すまない、梔子!」


日が沈むまで、梔子を付き合わせてしまっていた。

彼女はもうずっと椅子に座りっぱなしで、動けずにいたということだ。

こんな時間になるまで一度も気づかず、我を忘れて描き続けてしまった自分を責めずにはいられない。


「いえ……! 謝らないでください、紅月さん。私は全然、構いませんから……」


梔子はあたふたとした様子で首を横に振りながら言ってくる。


「だが……」

「いやあ、すごい集中力だったじゃないか、紅月くん。この子を描いてくれていたんだろう? どれ、ちょっと僕に見せてくれないか」


慌てふためく紅月と梔子の間に割って入ったのは智行だ。

紅月が止める間もなく、智行はスケッチブックをすばやくかっ(さら)っていってしまう。


「先生――」

「これは……」


返してください、と訴えようとした声は途中で消え入ってしまった。

智行が目を見開き、言葉をなくして絵に見入っていたからだ。


彼はしばらくの間、身じろぎもせずに絵を見つめたままでいたが、やがてスケッチブックを持ったまま梔子の方へと向かっていく。


「梔子も見てごらんよ。ほら、これが紅月くんが描いてくれたお前の絵だ」

「…………!」


梔子の瞳が、ゆっくりと大きく開かれていく。


――彼女が、紅月の絵を見ている。


今まで、これほど緊張したことがあっただろうか。

固唾を呑んで彼女の反応を待っていると、やがて返ってきたのは唖然としたような声だった。


「……これが……私、ですか……?」


……瞬時に、失敗した、と思った。


梔子の表情は、どう見ても喜んでくれているようなものではなかった。


つまり紅月は、何時間もの間、一人で夢中になって的外れな絵を描いていたということだ。


一気に募ってきた羞恥と申し訳なさに、血の気の引く思いだった。


「……梔子。申し訳なかった。そんな絵を描くために、貴女をずっと付き合わせてしまって。その絵は――」

「そんな絵だって? とんでもない。僕と梔子は、ただびっくりしていただけだよ。紅月くん、きみの絵があまりにもすばらしすぎてね」

「え……?」


智行の言葉に、耳を疑う。

彼はスケッチブックを紅月に返しながら、冗談めかした口調で言った。


「見直したよ。今までずっと、僕はきみのことをただのいけすかない絵描きとしか思っていなかったが、これだけすばらしい絵を描くなんてね。邪魔をして悪かったよ。ぜひ続きを描いてやってくれ」

「いえ……。この絵は、これで完成です」

「あ、そうなの?」


ふいに視線を感じて、紅月は顔を上げた。

すぐに梔子と目が合う。

彼女はほんのりと頬を染め、嬉しそうにはにかんでいた。


「……ありがとうございました、紅月さん。私のことを描いてくれて、とても嬉しかったです」


梔子の見せてくれたその笑顔と言葉で、それまでの不安や緊張が一気に報われていくようだった。


改めて、完成させた絵を眺めてみる。

智行や梔子は褒めてくれたが、よくよく見てみると、それは粗の目立つ絵だった。


陰影のつけ方は荒く、色使いも練られたものではない。

一年もの間、描くことから目を背けていた代償は大きかった。

退院できたら、紅月はまず、死に物狂いで以前までの技術を取り戻すことから始めなければならない。


そんなことを考えていると、智行が突然、名案を思いついたとばかりに明るい声で言った。



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