十.追想 ~喜びをくれた花~ ―14
その翌日もまた、快晴だった。
日が暮れるまでに病院に戻らなくてはいけないから、屋敷でゆっくりしている時間はあまりなかった。
車に乗り、屋敷を出立する。
駅に着けば、廉寿とはここでお別れだ。
「紅月さま。あなたさまがお元気でいらして、本当に何よりでした。お屋敷のことは、どうかご心配なさらないでください。あなたさまのお帰りを、心よりお待ちしております」
「ありがとう、廉寿。こっちに来る前、先生が言っていたんだ。私の体調はほとんど問題ないから、後は歩けるようになりさえすれば退院になると。だからおそらく、そう遠くないうちに戻ってこられると思う」
これからやるべきことは山積みだった。
留学を勧めてきた塾長への返答。
家族が皆亡くなり、もはや紅月一人きりとなった以上、家の今後についても考えなければならないだろう。
一つ一つ、片していかなければならない。
だがすべては、自分一人で歩けるようにならなければ何も始まらない。
(一日も早く……退院が認められるようにならなければ)
昨日までとは比べ物にならないほど、心は明るくすっきりとしていた。
明日からは、痛みに耐えながらの歩行訓練が始まることになる。
それでも、どんなに苦しくても耐えられる。
そう、はっきりと思えるほどに――
「行こうか、梔子。……梔子?」
声をかけるとしばらくして、梔子ははっとしたように紅月を見つめてきた。
それから、ごめんなさい、とばつが悪そうに謝ってくる。
「少し、ぼうっとしてしまっていて。廉寿さん、本当にお世話になりました」
「いえいえ。何を仰いますか。世話になったのは私めの方ですよ。どうか、紅月さまのことをよろしくお願い申し上げます」
そうして廉寿と別れ、汽車の切符を買うために移動を始める。
その間も、さっき、一瞬だけ見えた梔子の表情が気になってならなかった。
廉寿と退院の時期についての話を終え、紅月が声をかける直前。
彼女はどうしてか、表情を曇らせていたような気がしたからだ。
けれど今、彼女は、
「紅月さん。切符、買ってきました。駅員さんが、汽車が来たら乗るのを手伝うから、あのあたりで待っていてほしいと……なので、そろそろ行きましょう」
何事もなかったように微笑んで、切符を差し出してくる。
彼女の顔にはもう、ほんのわずかの翳りすら見出すことはできなかった。
(気のせい……だったのか?)
すると、梔子が不思議そうに声をかけてくる。
「紅月さん、あの……?」
「……すまない。何でもないんだ。そうだね、それなら行こうか」
そうして、紅月は梔子とともに帝都を発った。
彼女が見せたあの表情は、何だったのか。
やはり、気のせいだったのか。
胸にわずかな引っかかりを残したまま――
葉室医院に帰り着いたのは、その日の夕刻のことだった。
「戻ってきたか。お帰り、二人とも! その様子だと、無事に行って帰ってこられたようでよかったよ!」
智行は梔子を抱きしめると、頭を撫でてねぎらっていた。
それが済むと、紅月を見て彼は笑う。
「紅月くんも、なんだかすっきりした顔になっているようじゃないか。旅に出た甲斐はあったようだね」
「……はい」
智行のそばにいた梔子が紅月に視線を向けた。
目が合うと、彼女はほんのりと頬を染め、少し気恥ずかしそうに控えめに微笑む。
「梔子のおかげです。彼女がいなければ、私は今も……」
今もきっと、紅月は何もかもを拒絶して、寝たきりのままだっただろう。
心は壊れて、死んだまま。
そうしていずれは、身体も衰え、死を迎えていたに違いない。
「……梔子」
気づけば、紅月は彼女を呼び止めていた。
「次に、貴女がここに来る時でいいんだ。この間、私が貴女に突き返してしまった色鉛筆を……また持ってきてもらえるかな」
梔子は、微笑んで頷いてくれた。
「わかりました。明日……また持っていきますね」
次の日から、紅月は本格的に歩行訓練を始めることになった。
訓練は痛みとの闘いだった。
病院の庭先、訓練用に設置された棒に捕まりながら、ゆっくりと足を動かす。
はじめのうちは、順調だった。
棒に頼りながらも三歩、四歩と歩くことができて、これならば数日もすれば歩けるようになるのではないかと希望が膨らんだ。
けれど転んでは立ち、また歩くのを繰り返していると、次第に痛みは耐え難いほどに強くなってくる。
「紅月くん。今日はもう終わりにしましょう。無理をしすぎるのはよくないわ」
昼下がり。
痛みにうめきながら座り込んだ紅月に、指導をしていた看護師がそう声をかけてくる。
けれど紅月は首を横に振った。
額から滴り落ちる汗を拭い、もう一度立とうと棒を握りしめる。
「……いえ。もう一度だけ、練習させてください。今は、一日も早く……歩けるようにならなければいけないんです」
「あなたの気持ちはよくわかるけれど、焦ってもいい結果にはならないわ。無理をすることで、かえって回復が遅れることだってある。だから、今日はもう終わりよ」
「…………」
思うようにならない身体に、つい苛立ちが込み上げてくる。
看護師の言うことはもっともだ。
それでも、どうしてもまだ練習をやめたくなくて、思わず黙り込んだ――
こちらに近づいてくる足音が聞こえたのは、そんな時のことだった。
足音に先に気づいたのは看護師の方だった。
看護師は顔を上げると、あら、と明るい声を上げる。




