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十.追想 ~喜びをくれた花~ ―13


ひとしきり泣き暮れ、気づくと梔子の姿は部屋にはなかった。

おそらくは、気をきかせて紅月を一人にしてくれたのだろう。


兄からの手紙と花の種をそっと封筒に戻し、大切に懐にしまう。


気づけば、部屋の外に見える庭園は黄昏色に染まっていた。

日が傾いてきて、あたりの空気はしんと冷たくなりつつある。


……暗くなる前に、早く洋館に戻らなければ。


「……梔子?」


この部屋の近くで、梔子はずっと待っていてくれたのかもしれない。

名を呼ぶと、まもなく部屋の引き戸が開き、彼女がそっと顔を見せた。


梔子は心配そうに紅月を見つめていた。


少しでも安心してほしくて、彼女に微笑む。

泣き腫らした顔できちんと笑えていたか、少しも自信はなかったけれど。


「梔子。すまなかった、ずっと待たせてしまって。だいぶ暗くなってきたね。そろそろ、部屋に戻ろうか」

「わかりました。ですが、他に見るものがあれば……」


梔子の問いかけに、紅月はもう一度部屋を眺めた。

けれどすぐに、彼女の方を振り返り、首を横に振る。


「いや、もう大丈夫だよ。……ここに来た目的は、果たすことができたからね」


そう。

目的は、果たすことができた。


昼間までは迷いに侵されていた心が、今は不思議なほど凪いで、落ち着いているのを感じる。


……その晩。

部屋の扉が控えめに叩かれ、外から梔子の声がした。


「紅月さん。着替えはお済みですか? 桶と手ぬぐいを片付けに来たのですけれど、入ってもいいでしょうか?」

「ああ、済んだよ。すまないね、梔子」

「失礼します」


梔子は部屋に入ってくると、紅月の近くに置いてあった桶を一瞥した。

桶の中には、湯水と手ぬぐいが入っている。

着替えをする前、身体を拭くために使ったものだ。


「あの、もうお休みになりますか? でしたら今、お手伝いしますが」


紅月は今、まだ車椅子に乗った状態だ。

ベッドに移るには、一度立ち上がる必要がある。

梔子は紅月がベッドに横になったのを見届けた上で、自分も部屋で休むつもりらしかった。


少しの間、紅月は迷った。

今日一日、梔子には大変な苦労をかけた。

少しでも早く、彼女にはゆっくりと休んでもらいたい。


けれどその一方で、どうしても彼女に伝えたいことがあったのだ。

迷った末に、紅月は話を切り出すことに決めた。


「……梔子」

「はい。どうかなさいましたか?」

「それほど時間はかからない。少しだけ……貴女に伝えたいことがあるんだ」

「伝えたいこと……ですか?」


梔子は首を傾げ、目を瞬く。


心はもう、決まっていた。

この決意を、紅月の今後を誰よりも気にかけてくれていた彼女に、一番に伝えたいと思った。


紅月は頷いて、言葉を続けた。


「今までずっと、迷っていたが……私はもう一度、描こうと思う」

「…………!」


梔子の瞳が、ゆっくりと驚きに見開かれる。


「やっと、決心がついたんだ。貴女が前に言ったとおりだ。私は……絵を、捨てることなどできない。兄上がずっと昔に、私に言ってくれたんだ。お前の描く絵は、人を喜ばせることのできる絵だと。ならば、私は……許されるのなら、これからもずっと、描いていたい」

「…………」

「……梔子?」


やがて目にしたものに、紅月は息を呑んだ。


「どうして、泣いて……」

「……え? あ……ご、ごめんなさい! 泣くつもりなんて、なかったのに」


梔子は急いで濡れた頬を拭ったが、それでもなかなか涙が止まりきらないらしい。


泣き笑いながら、彼女は言った。


「……嬉しかったんです。とても」

「嬉しい……?」

「今の紅月さんは、もう苦しそうじゃなくて……とても、安らいだ表情をしているから」

「――……」

「よかった……」


そう言って、梔子は笑っていた。

ぽろぽろと涙を溢れさせながらも、本当に嬉しそうに――


……わからない。

紅月には、わからなかった。


まるで内から突き上げてくるような、この抗いがたい衝動はいったい何なのか。


「……紅月さ――」


気づけば、梔子を抱きしめていた。


腕の中で、彼女が戸惑っているのが伝わってくる。

それでも、彼女を放すことができなかった。


「すまない、梔子。少しだけで、いいんだ。どうか……このままでいてくれないか」

「…………」


梔子から答えはなかった。

けれどまもなく、紅月の背に、そっと彼女の手が触れるのがわかって。


「……はい」


彼女の声が、聞こえた。


「はい。私でよければ……おそばにいます」



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