十.追想 ~喜びをくれた花~ ―12
「そこの棚の……端から二番目にある帳面を取ってもらえるかな」
「はい。端から二番目……ええと、これで合っていますか?」
梔子が取ってきてくれたのは、一冊の古いスケッチブックだった。
幼い頃に使っていたもので、表紙はよれ、中の紙は少し黄ばんでいる。
頁を開くと、紙いっぱいに描かれた懐かしい絵が目に飛び込んできた。
隣から見ていた梔子が、驚いた声を上げる。
「これは……」
「私がずっと昔に描いたものなんだ。……懐かしいな」
それは、まだ年端もいかない幼子だった頃に描いたものだった。
庭に咲いた花の絵から、憧れていた画家の絵を模写したもの、旅先で写生したものまで、描かれている絵はさまざまだ。
初めて自分専用の画具やスケッチブックをもらった時の喜びは、今もなお忘れられない。
あの頃はただ、純粋に楽しくて。
時が経つのも忘れ、一日中、あたりが暗くなるまで夢中になって絵を描いていた……
「この人は……」
梔子の声に、紅月ははっと我に返った。
彼女が反応した絵に気づいてまもなく、ぱらぱらと頁をめくっていた手が止まる。
その頁に描かれていたのは、幼い頃の兄、夕弦の姿だった。
「兄上……」
絵に描かれていた兄の表情に、紅月は胸を衝かれた。
絵の中の夕弦は、こちらに向かって穏やかに微笑んでいる。
やがて思い出されたのは、この絵を描いた時の情景だ。
――紅月、お前は本当にすごいな。この絵は、まるで俺にそっくりじゃないか。
――ありがとうございます、兄上! 気に入ってくれましたか? 僕、兄上のこと、もっともっと上手に描けるように頑張りますね。そうだ、この絵は兄上にあげます!
――いや、いいよ。その絵は、お前が持っていてくれ。お前がくれた絵は全部大事にとっておいてあるが、自分で自分の絵を持っているのは、少し気恥ずかしいからな。
夕弦は、両親とは違った。
紅月のことを、価値ある芸術品か何かのようにしか見ていなかった両親とは違う。
兄だけが、弟である紅月が成長していくのを本当に喜び、慈しんでくれた……
「紅月さん。これは……」
ふいに、頁の間から何かが落ちた。
梔子が拾って渡してくれた封筒に、紅月は息が止まるほどの衝撃を受ける。
それは、手紙だった。
――紅月へ。
その字は筆圧が安定しておらず、形も歪んでいたけれど、一目見ただけで兄のものだとわかる筆跡で。
震える指先で、紅月は封筒を開いた。
中には、紅月にあてた、兄の言葉がしたためられていた。
――紅月。
俺は、お前に謝らなければならない。
俺は、よい兄ではなかった。
お前がたくさん苦しんだのは、何もかも、俺が無能だったせいだ。
それなのに、お前に優しい顔をしながら、俺はずっと、何でもできるお前を憎み、妬んだことすらあったんだ。
すまなかった、紅月。
最低の兄だと思ってくれてかまわない。
だが、どうか、これだけは信じてくれ。
お前は俺にとって、本当に可愛い弟だった。
お前は昔から、優しすぎるやつだったな。
ただそのせいで、お前はいつも、一人で悩んで思いつめてしまうから、それだけがとても気がかりだ。
お前の未来が、幸福に満ちたものでありますように。
お前の描く絵が、お前自身にも救いと喜びを与えてくれますように。
願いをこめて、一緒に花の種を入れておくよ。
この花は、いつも俺に喜びをくれた花なんだ。
まるで、お前が描いてくれた絵のように。
さようなら、紅月。
お前という弟がいてくれたおかげで、俺の生涯は幸福だった。
どうかお前が、この手紙を見つけてくれるよう願います。
この手紙を書いた時の夕弦は、おそらくすでに死期を悟っていたのだろう。
もう二度と、紅月と話すことはできないと知った。
だから兄は、病に冒されながらも、最後の力を振り絞って手紙を残してくれたのだ。
「紅月さん。この種は……」
便箋を開いた拍子に落ちた種を、梔子が拾って渡してくる。
橙色の小さな種を紅月の手のひらにそっと落としながら、彼女は言った。
「この種は、梔子の花の種です。花言葉は……喜びを運ぶ」
「…………」
ふいに耳の奥によみがえったのは、幼い頃、兄が紅月にくれた言葉だった。
――お前は、何があっても描き続けろ。せっかく生まれ持った才を、そんなふうにないがしろにしてはいけない。
――紅月。お前の絵は、人を喜ばせることのできる絵だ。
便箋の上に、ぽつりと小さな染みが落ちた。
時を置かず、水滴が手の甲を滴っていくのが見えて、ようやく紅月は自分が泣いているのだと気づく。
「……紅月さん」
「……兄上は……、兄上は、本当に優しい人だったんだ」
そばには、梔子がいる。
それでも、止められなかった。
「いつだって、自分のことより、私のことばかり……。最期の、最期まで……、こんな……っ」
兄が死んだあの日から一度も泣けなかったというのに、今、紅月はどうしても涙を止めることができない。
「兄上……!」
そうして、紅月は泣いた。
一年が経ち、ようやく紅月は兄の死を悲しむことができたのだった。




