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十.追想 ~喜びをくれた花~ ―11


とは言っても。

二人にかかる負担は、できる限り減らしたかった。


今夜泊まる部屋まで移動させてもらった後、紅月は杖を床に立て、足に力を入れてみた。


……今日こそは。


この数日、紅月は車椅子で移動する訓練のほかに、自力で立って歩く練習も少しずつ始めていた。


練習の甲斐(かい)もあって、おぼつかないながらも立つことができたのは、つい二日前のことだ。


ただ、しばらく立っていると徐々に痛みが増してきて、歩くことはできずにいた。


長い距離は、まだ無理だ。

けれど、近い場所に少し立ち寄るだけなら、杖を使ってでも歩くことができれば……


そろそろと床の上に足をつけ、杖に体重をかけて、腰を上げる。


(立てた……な)


心なしか、前よりも痛みが弱い気がする。

これなら今度こそ、歩けるかもしれない。

そう思えば、杖を握る手には自然と力がこもった。

心を決め、杖を少し前につく。


一歩、二歩……三歩。

……歩けた。


込み上げる歓喜のままに、紅月はもう一歩進もうとした。


けれどその瞬間、片足を激痛が駆け抜ける。

耐えきれず、一気にその場に倒れてしまった。

杖が床に転がって、部屋中に大きな音が響き渡る。


「紅月さん!」


音を聞いたのか、梔子が駆けつけてきたのはそれからまもなくのことだった。


床の上にうずくまる紅月に、転がった杖。

それだけで梔子は瞬く間に状況を理解したらしかった。


彼女は紅月の隣に膝をつき、声をかけてくる。


「掴まってください。紅月さん」

「梔子……。……ああ、すまない」


落ちていた杖を拾い上げ、梔子に手伝ってもらいながら車椅子に座る。

彼女は苦しそうな表情を浮かべて紅月を見つめていた。


……また、梔子の手を煩わせてしまった。

わずかにでも歩くことができた喜びは、瞬く間に罪悪感にかき消されていく。


「紅月さん。まだ、一人で立ち上がってはだめです。もし怪我をしてしまったら、私では何もできませんから……」

「……すまない。浅はかなことをしてしまった」


苦しげな表情をする梔子に、また後悔が募った。


……そうだ。

ここは病院じゃない。

無理に紅月が歩いて怪我をすれば、余計に梔子や廉寿に迷惑をかける。


自分の軽率さを責めていると、彼女はそっと尋ねてきた。


「あの……どこか、行きたいところがあったのでしょうか?」

「…………」


少しの間、迷った。


行きたいところは、あった。

何しろ紅月が屋敷に戻りたいと願ったのは、和館にあるアトリエに向かい、そこで自分の今後を見つめ直したかったからだ。


けれど今、敷地内の移動でさえ助けがいるのだと思い知らされたばかりだ。

和館に向かうには、また梔子に支えてもらわなければならない。


病院からこの屋敷にたどり着くまで、彼女は朝早くからずっと紅月の世話をしてくれていた。


屋敷の中でくらい、彼女にはゆっくり休んでいてほしいと思っていたのに……


「紅月さん。後ろから、押しますね」

「え――」


紅月が何も答えられずにいるうちに、梔子は車椅子を押して部屋を出た。


部屋の外は、広々とした廊下につながっている。

赤い絨毯の敷かれた廊下を、彼女は玄関ホールのある方へと進んでいく。


「先ほども言いましたが……私は、全然、迷惑だなんて感じていないんです。私がここに来たのは、ただ、紅月さんの……あなたの力に、なりたくて」

「…………」

「だから、お願いします。どうか……もっと、私を頼ってはいただけませんか……?」


その、あまりにもまっすぐな、懇願の言葉に。


……私が、間違っていた。

心の底から、そう思った。


初めて会った時から、紅月は梔子を大人しい少女だと思っていた。

内気で、控えめで、弱々しい少女なのだと。


……けれど、違った。

梔子は、そんな少女ではなかった。


思えば病院で見てきた彼女は、いつも真摯で、誰かのために一生懸命に働いていて。


こんなに小さいのに、紅月などよりずっと気丈で、芯の強い少女なのだ――


「……和館に」

「はい」

「怪我をする前まで……絵を描くのに使っていた部屋が、和館にあるんだ。そこに行きたいと思っていた。……連れていって、もらえるかな」

「はい。もちろんです」


そう言って。

梔子は嬉しそうに微笑んでいた。




それから梔子とともに、紅月は久しぶりに自室に帰ることができた。


ここに来るのはもう何年ぶりだろう。


十三になり、小学校を卒業するまで、ここで修業に明け暮れた。


画塾に入ってからは、たまに屋敷に帰る時くらいしか、この部屋に足を踏み入れることもなかったものだ。


古い資料や画具が並んだ棚に、畳や柱に残る、落としきれなかった絵の具の汚れ。


家を出る前にある程度の片付けはしたが、それでもこの場所をアトリエとして使い続けた名残はあちこちに見受けられる。


壁に立てかけられた画架(がか)や、絵の具を混ぜるためのナイフ、使い古したパレットなどの道具が物珍しかったのか、梔子は呆気に取られたように周囲を眺めていた。


「ここが……紅月さんが使っていたお部屋なのですね」

「ああ。……ありがとう、梔子。ここまで、連れてきてくれて」


梔子は黙って首を横に振った。


「いいえ。お力になれたのなら、何よりです。何か、見たいものはありますか? 私が取るので、遠慮なく言ってください」


和館に入る手前で車椅子は置いてきていた。


杖をつきながらもこの部屋まで来られたのは、ここまでずっと梔子が肩を貸して支えてくれたおかげだ。


今は近くから運んできてもらった椅子に座っている状態で、部屋の中のものを手に取ってみたければ彼女に頼んで持ってきてもらう必要があった。


「そうだな……」


紅月は少しの間、考え込んだ。

やがて、棚の隅の方にある帳面に目がとまる。



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