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一.口無しと梔子 ―8


玄関を出て、庭を歩く。


月明かりの中、やがて前を行く彼が立ち止まったのは、池に渡した橋の先、植栽と庭石が並ぶ一角だった。


紅月はそばに植えられている低木へと足を向けた。


その木に咲いていた白い花に触れながら、彼は静かに口を開く。


「貴女の名は、死人に口無しということわざを引き合いに出されて、蔑まれていたそうだね。貴女を死人と見なす、悪意をこめて」

「それは……」

「呆れた話だ」


吐き捨てるようにして、紅月が言った。

低い、低い声だった。

その声音には、底知れないほどの怒りと憎悪がこもっていて、くちなしははっとして顔を上げる。


(紅月さま……?)


暗鬱に沈んだ瞳で白い花を見つめながら、紅月は言葉を続けた。


「私は見た目だの、何ができるできないだのと他人を見下し、(あざけ)って嗤うような(やから)反吐(へど)が出るほどに嫌いでね。そう――今まで、貴女の周囲にいた連中のような人々だよ。だが」


おいで、と誘われて手を取られる。


あえて距離を取るようにして立っていたのに、紅月のすぐ隣――肩が触れるほどの距離まで近づくような格好になって、どきりと心臓が大きく跳ねた。


何か、衣に香を()きしめているのだろうか。

紅月からは、甘く澄んだ、花のような香りがした。


彼はそのまま、くちなしの指先をそっと白い花に添わせて言った。


しっとりと柔らかい花弁に触れた途端、ふわりと強い香気が鼻先をくすぐる。


梔子(くちなし)。それが、この花の名だよ」

「――……!?」


言葉が出ない。

それほどの衝撃が、くちなしの総身を包み込む。


(私と、同じ……?)


紅月の眼差しからはもう、先ほどまでの暗い光は消え失せていた。

その代わりに、彼は愛おしむように目を細め、梔子の花を見つめている。


「貴女の名の由来になった花だ。柔和で、甘やかで、美しい。貴女の名は本来、不吉を意味する呪われた名では決してない。梔子――この優しい香りを持つ花を意味する、美しい名なんだよ」

「…………」


月光に照らされた、その白い花を見つめる。


(これが、梔子の花。私の名前……?)


紅月の言った通りだった。


初めて目にする梔子の花は、月明かりを受けて、真白く美しく咲いている。


口無しから、梔子へ。


紅月がくれた言葉は、長い間疎まれ、悪意によって塗りたくられた名を、美しく咲き誇る花の名へと浄めていくようだった。


「今まで、さぞつらかっただろう」


隣を振り仰げば、紅月と目が合う。

彼はただ、こちらだけを――梔子だけを、まっすぐに見つめていた。


真紅を宿した彼の瞳は揺らいでいる。


まるで、何か、強い痛みを堪えているかのように。


壊れ物を扱うように、そっと頬に手を触れられる。

涙の跡をたどるような指先の動きで、先ほどまで梔子が泣いていたことに、彼がとっくに気づいていたのだとわかった。


「周りからどれほど嘲られ否定されようと、ひどい屈辱を受けようと。貴女はそうやって、ずっと耐え続けてきたんだね。貴女をたった独りで、こんなにも苦しませて、悲しませて。すまなかった。……私がもっと早くに、貴女が苦しんでいることに気づかなければならなかった。今度は、私が……貴女を助けたかったのに」


(あ……)


喉が引き絞られたように痛くなる。

滲んで歪んだ視界の向こうで、梔子の涙を見た紅月が、小さく息を呑むのがわかった。


「いいえ……」


梔子は首を横に振った。

今度こそ、昼間と同じことを繰り返してはいけない。

はっきりと言葉にして、伝えなければならないと思ったのだ。


「いいえ、いいえ……! どうか……、どうか、謝らないでください」


嬉しかったんです、と梔子は言った。

どうか、この気持ちが紅月に伝わりますようにと、祈りながら。


「両親がいなくなってから、紅月さまが……、あなたが、初めてだったんです。あなたは、私を嗤わなかった。こんな私に微笑みかけてくれたこと、優しくしてくれたこと……。それが、本当はとても、嬉しくて」


だから、どうか。


その願いを口にすることは、とても恐い。

もし、紅月から拒否の言葉を告げられたらと思うと、身体が芯から凍りつきそうになる。

それでも。


ありったけの勇気を振り絞って、梔子は言った。


「ここにいても、いいですか」


込み上げた嗚咽のせいで、その声は少し震えて、掠れてしまった。


だからもう一度精一杯、喉の奥に力を込める。


「私は、全然、あなたにふさわしい者だとは思えません。それでも――」


それ以上、言葉を重ねることはできなかった。


刹那(せつな)、甘く優しい花の香りが強くなる。


月明かりが消え、梔子の視界は温かな暗闇に包まれた。


「もちろんだよ、梔子」


紅月が梔子を抱き寄せ、背を撫ぜながら言う。


「むしろ私の方こそ、貴女に請わなければならない。私は貴女の隣にいて、貴女を守りたいと思っている。だから、どうか……このまま、私にその身を預けてはもらえないだろうか。ここで貴女を守る役目を、私に担わせてはもらえないだろうか」


緊張のためか、少しこわばった声音に聞こえたそれは、あまりにも真摯で一途な、懇願の言葉だった。


なぜ紅月がこんなにも梔子を大切にしてくれるのかは、やはりわからなかったけれど。


こんなにも強く、深い想いをぶつけられたなら、梔子に断ることができるはずもない。


そっと、梔子は手を持ち上げた。


逡巡(しゅんじゅん)したせいで、指先が一度、宙で止まる。

けれどためらいを振り切って、その両手を紅月の背に添えた。


彼が息を呑む音が聞こえたのは、その瞬間だった。


「……ありがとう、梔子」


やがて紅月は懐から何かを取り出した。


彼が梔子の首の後ろへと腕を回したかと思うと、胸元でしゃらりと音が立つ。


「これは……」

「約束の品だよ。貴女が大切にしていたものだ」


梔子の首にかけられた、それは。

そのペンダントは。


震える手で、ペンダントに触れる。

壊れてしまったはずのペンダントは、少し前まで砕けていたことなど信じられないくらいに、綺麗に直っていて……


「…………っ」


また、目の前が滲んだ。

喉が、胸が、熱くて苦しい。

涙を堪えることができなかった。


お礼を、言いたいのに。

声は嗚咽に変わってしまって、言葉を発することができない。


甘やかな花の香りが、ふわりと梔子を包んだ。

紅月は梔子を抱き寄せると、そっと背をさすってくれる。


かすかに苦笑しつつも、彼は優しく呟いた。


「貴女はずいぶんと涙もろいようだね。いつかは微笑んでいる顔も見てみたいものだが………。泣いていいんだ、梔子。泣きたいのなら、泣きたいだけ、泣いてしまえばいい」


胸が詰まる。息が苦しい。


そんなことを言われてしまったら、もう堪えることなんて、できなくなってしまうのに。


……その日。

梔子がすっかり涙を流し尽くしてしまうまで、紅月は背を撫で続けていてくれた――



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