十.追想 ~喜びをくれた花~ ―10
それから、一秒が一分にも一時間にも引き延ばされたような時が過ぎ――
「さあ、着きましたよ、紅月さま。梔子さん。長らく辛抱いただいて、ありがとうございます」
ようやく車は屋敷の玄関前までたどり着いた。
まず廉寿は車椅子を外に出し、続いて梔子も車を降りた。
「紅月さん。私の肩に掴まってください。段差に気をつけて……」
再び梔子に助けてもらいながら慎重に車を降り、扉のすぐそばに置いてもらっていた車椅子に腰を落ち着ける。
その様子を見ていた廉寿はいたく感心したらしく、ほう、と息をついて言った。
「しかし、先ほどから思っておりましたが、梔子さんは本当にしっかりなさっておいでですな。改めて感謝申し上げます、何から何まで、紅月さまをお支えいただいて」
「いえ、あの、大したことではありません。少しでも、お役に立てていればよいのですが」
そう言って気恥ずかしそうにはにかんだ梔子は、屋敷を見て大きく目を瞬く。
「大きいのですね……」
「開国よりも昔に遡れば、篁家は武士としてお殿さまにお仕えしてきた長い歴史がありますのでな。右のお屋敷は、もう何百年も前に建てられたものを幾度となく改修し、維持してきたものなのでございます」
門から見て左に洋館、右に先祖伝来の屋敷と、敷地に二棟の建物が並ぶ格好だ。
洋館は祖父の代に新しく建てたもので、主に来客をもてなすために使われていた建物だった。
二階建てで、宿泊室のほか、ダンスホールや撞球室まで備えられており、贅をこらした造りだ。
そして右側の純和風の館が、普段の生活の場として一家が使っていた建物だった。
あれからというもの、篁家で働いていた使用人は廉寿を除いて皆、別の奉公先を見つけて去っていったらしい。
あたりはしんと静まり返っており、人の気配はまったくない。
木枯らしが吹き、枯れ葉が転がる音だけが、誰もいない敷地内に侘しく響くだけだった。
(一年ぶりか……)
洋館の玄関口は大きく張り出しており、その上はバルコニーになっていた。
夕弦の死からまもなく、紅月はあのバルコニーに梯子を立てて屋根に登り、そこから迷いもなく飛び降りた。
……あれから、もう一年も経つのだ。
改めて下から見てみれば、かなりの高さがある。
そんな場所から落ちたにもかかわらずこうして生きていることが、今となっては奇跡としか思えなかった。
梔子に車椅子を押してもらい、向かうのは洋館の方だった。
紅月が以前過ごしていた自室兼アトリエは和館にあるが、和館は段差が多く車椅子での移動は難しい。
そのため、滞在中は主に洋館の方で過ごすことになっていた。
「迷惑ばかりかけてすまないな、梔子。廉寿も……」
思わず謝罪の言葉を口にすると、廉寿は少し困ったように笑いながら言った。
「紅月さま。そうして謝ってこられるのは、駅でお会いしてから五度目ですぞ。次からは片手の指だけでは数えられません」
「あ、あの……、紅月さん」
すると、梔子がどこか緊張したような声で言った。
「父さまはああ言っていましたけど、本当は、私……紅月さんがお屋敷に戻ると聞いて、自分から父さまに頼んだんです。紅月さんのお手伝いをしたいと……」
「え……?」
思わず梔子を振り返れば、彼女は恥ずかしそうに少しだけ頬を紅潮させていた。
驚かずにはいられない。
梔子がこうして付き添ってくれたのは、智行に頼まれたからではなかった。
まさか、彼女が自分から付き添いを申し出てくれたなど……
「だから……迷惑だなんて、全然思っていないんです。紅月さんのこと、少しでも助けられたらと思ったから……」
梔子の横で、廉寿も頷いていた。
「梔子さんの言うとおりですぞ。私も彼女も、いやいや紅月さまのおそばにいるわけではないのです。あなたさまのお力になりたいと願ったからこそ、我らはここにいる。ですから、もうそのように謝罪などなさらないでくださいませ」
「…………」
なんと言葉を返したらいいのか、すぐにはわからなかった。
二人の心遣いの温かさに、優しさに、胸の奥から何か突き上げるような感情が湧いてくる。
……こんな私の力になりたいだなどと、あなた達は願ってくれるのか。
喉が、震えた。
「……ありがとう、二人とも」
こんな言葉だけでは、とても足りない。
それでも。
どうしても、伝えたいと思った。
「本当に、ありがとう……」
それ以上、顔を上げていることはできなかった。
気を緩めた途端、二人の前で感極まってしまいそうだったからだ。




